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かつて、ぼくは「狂戦士」と呼ばれる存在であり、ジェンダー・ウォーズと呼ばれる男女間の戦争に女性側のスパイとして参戦していた。では、そもそもジェンダー・ウォーズとは何か。
ジェンダー・ウォーズとは男性と女性のあいだの戦争であった。それはなぜ起こったのか。
ジェンダー・ウォーズには、いくつかの重要な契機があるが、分けてもコロナ禍とAIの進化が重要である。
コロナ禍以前、女性の権利獲得の機運は高まっていた。男女の平等も実現するように見えた。軌を同じくして、セクシャル・マイノリティの運動も隆盛を見せ始めていて、ぼくもまた、その権利獲得運動のグラデーションのなかにいた。
しかし、コロナ禍を境に女性の権力拡大に対して、悪い意味で男性性のバックラッシュが起きた。端的に言えば、男性の暴力性が爆発したのだ。
コロナ禍が長期化して、何が起きたのか。
男性たちと女性たちは、閉じた空間すなわち〈家〉に共に閉じ込められた。その結果、廃れつつあった〈男根的なもの〉が復活し、男性による女性への暴力の嵐が吹き荒れた。
言葉と拳で女性を黙らせ、従わせ、辱める男たちのドメスティック・バイオレンスは、〈家〉の外には秘密のまま、つまり統計データに現れることもなく爆発的に増加していった。情報のみが武器となる情報社会において男性が肝心な情報を独占していたのだ。
女性たちには男たちと戦うすべがなく、その時代はその女性たちにとっての暗黒の時代、絶望の時代と呼ばれるようになった。
2035年。AIの発達により社会から〈仕事〉が消えたとき。事態は女性たちにとって最悪なものとなっていた。女性たちは完全に〈家〉に閉じ込められ、暴力的な〈男根的なもの〉が世界を覆いつくしていた。女性たちが抵抗線を引く余白はもはやどこにもないように思えた。
もし、あのままの状態が続いていたなら、ぼくがこの文書を書くことが可能になることもなかった。これはぼくと〈彼女たち〉の闘いの物語である。

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話は、ぼくが「狂戦士」となる発端に遡る。2035年の時点でぼくは35歳になっていた。ぼくが20歳の時に新型コロナウィルスのパンデミックが起きたわけだが、ぼくにとってその年は個人的にはもっと大きな事件が起きた。精神病院の閉鎖病棟へ強制的に収容されたのである。今では表向きはもっと穏当な言葉が使われるのだろうが、自他に危害を及ぼす可能性があるという理由で文字どおり監禁された。同行した親が入院手続きを済ませると、屈強な男性看護師に「最初の1週間は個室に入ってもらいます」と言われ通されたのは四畳半くらいの座敷牢だった。布団と枕に毛布、それから剥き出しの便器だけの板張りの独房だった。独房の正面が鉄格子になっており、両隣の房から不気味な呻き声が漏れ聞こえてきた。あの悪い場所で過ごした初めての夜の不安と恐怖は一生忘れないだろう。
入院生活について、いま詳しく語ることは避けるが、重要なのは、ぼくがこの時、精神病であると診断され、いわば狂人であるとのお墨付きを頂いたということだ。この時点で「狂戦士」になったわけではないということを銘記してほしい。20代のあいだぼくは精神病院への入退院を繰り返した。かつてはその運命を呪ったものだ。様々な人から、様々な場面で、狂人を指すあの侮蔑的で通俗的な差別語を浴びせられるのにも慣れてしまっていた。自分でも治ろうとする意志や努力が足りないのではないかと疑いはじめていた。これを、いま、読んでくれている人のなかにも、心の病を患っている人がいるかもしれないので、あえて断言しておくが、それはあなたのせいではないし、治癒に関して意志や努力が足りないなどということは絶対にないと断言しておく。
入退院を繰り返しながらも、「自分の食い扶持は自分で稼ぐもの」という〈規範〉を強固に内面化していたぼくは、なんとか〈仕事〉を続けていた。何度か休学を挟んで、6年かけてなんとか大学を卒業したあと、ぼくは10歳までイギリスで育った帰国子女だったので、英語力を生かしてテレワークで〈仕事〉をした。納期に追われて、過労気味になり精神状態を悪くしたりもしたが、それでも〈仕事〉は続けた。衣食住以外の唯一の出費は〈秘密の趣味〉のためのものだったが、出費はたかが知れていて貯金もそれなりの額になっていた。そして、突然にそしておそらく偶然に転機は訪れた。
20代の最後に入院して以来(そのときも短期間で退院できたのだが)、30代になってからの5年間、一度も入院に到ることなく、生活を破綻させずに持続することが出来ている。その転機がなぜ訪れたのかは、ぼくにもよく分からない。確かに、〈母の死〉という出来事はあった。ぼくの〈秘密の趣味〉を知ってから、理解を示し、協力を惜しまなかった母、僕の数々の凶行を前にしても一度も責めることのなかった母を、ぼくは心の底から愛していたし、その存在を喪ったことの衝撃は、ぼくの血肉を飛散させるほどに深かったけれど、病状の好転との因果関係があるのかどうか、正直、自分では分からない。
30歳になってから精神は安定していたわけだが、この頃からありつける〈仕事〉があからさまに減り始めた。ベーシック・インカムの導入までまだ5年あったが、自動翻訳技術の精度が著しい進歩をとげ、英語関連の〈仕事〉の依頼は減る一方だった。そこで、例の〈規範〉のために長らく躊躇っていた障害年金を申請したら、あっさり通ったので、〈仕事〉が目減りした分の収入は補填できるようになった。しかし、5年が経ち、ついに〈仕事〉が無くなる日はきた。それはすべての人間の〈仕事〉が無くなる日でもあった。
その日、ぼくは人生で最後の納品を行った後、缶ビールを飲みながらベーシック・インカムについて書かれたパンフレットをパラパラめくっていた。声がしたのはその時だった。

声は聴覚を介することなく、ぼくの頭のなかで直接、鳴り響いた。

《お願いです…》

ついに来たか。幻聴が。と思った。さきほど、30代は精神が安定していたと書いた。けれども、その安定は絶対的なものではなく、常に狂ってしまうことへの恐怖と隣り合わせだった。ぼくは常人と狂人の中間地帯に住まう存在だった。自分の正気に自信が持てなかった。どれだけ正気であると自覚している時でさえ、自分のその正気に狂気が紛れ込んでいるのではないかと不安になった。それどころか、自分の思考に狂いが生じているとはっきり分かる瞬間さえあって、その分かるということこそが正気の証であるという悪循環が生まれる気配もあり、そこからぼくは目を背け、逃げてきた。
ぼくが患っている精神病には幻聴が伴うことが多いのだが、ぼくはそれまで幻聴とは無縁でいられた。幻聴の苦悩の度合いは体験したことがなかったので、今まで幻聴と無縁でいられたことは端的に幸いな事実だ。だが今、頭のなかではっきり聞こえた。奇妙なことに美しい均質な女性の声で。

《お願いです…》

と。ぼくは完全に狂ってしまったのか、と思った。デカルトに倣って、狂っているかもしれないと思っているあいだも、思っているあいだは、ぼくがぼくであることだけは確かだと思ってみても何の慰めにもならない。女性の声が繰り返す。

《お願いです…》

声が聞こえること自体には、なにしろぼくは一人きりだったので、激しく動揺していたが、声そのものには敵意や攻撃性は感じられなかった。ぼくは、ただ受け身でいることしかできなかった。この肉体なき声に、ぼくは何をお願いされるのだろうか。拒むとどうなってしまうのだろうか。少しだけ好奇心がわき、少しだけ不安が和らいだ。声の主は、ぼくが落ち着くのを待ってくれているかのようだった。数分が静かに経過した。声の女性が言葉を継ぐ。

《お願いです……いらっしゃってください……アセファルに》

まったくの意味不明……ではなかった。「アセファル」という言葉は知っていた。〈アセファル〉とはちょうど100年前の1935年にフランスの思想家ジョルジュ・バタイユを中心に結成された秘密結社の名前である。それなりに関連資料は残ってはいるものの、その活動内容の全貌は謎のままらしい。だが、「いらっしゃってください」とは?と少し考える。ぼくの思考を促すかのように、もう一度、声の女性が言う。

《お願いです……いらっしゃってください……アセファルに》

「いらっしゃってください」と言うからには、この〈アセファル〉とは場所のはずだ。記憶の奥底で何かが疼いた。〈アセファル〉という場所に行ったことはないが、微かに思い当たる節があった。それは、ぼくの〈秘密の趣味〉に関係がある記憶だ。随分前にある〈男〉に〈秘密のサロン〉のことを教えてもらい、一緒に行こうと誘われた記憶。確かあの〈秘密のサロン〉の名前が〈アセファル〉だったはずだ。試しに、「〈アセファル〉とは、N市のあのサロンのことですか?」と小声で声の女性に訊ねてみた。

《どうか……私たちの……希望になってください》

対話は成立しなかった。どうやら一方的に声を頭のなかに流し込まれているようだった。これは本当に幻聴なのだろうか。幻聴を聴いている人は何人も見てきたが、彼ら彼女らは総じて幻聴と会話しているようだった。この声はぼくが知っている幻聴のイメージとは随分と異なるようだった。特別に無茶な要求を突きつけてきているとも思わなかった。いよいよ不安よりも好奇心が勝ってきた。〈アセファル〉に行くと何が起きるのだろうか。「希望になる」というのが何を意味するのかは不可解だったが、行って、知りたい、と思った。

《どうか……私たちの……希望になってください》

少しだけ声が大きくなった気がした。そして、それを最後に女性の声はぷつりと途絶えた。その瞬間まで、〈其処〉に声の女性の存在感が在ったのだが、声と共に消え去った。ぼくはぼくが冷静であると自分では思えた。あるいは極限まで狂ってしまったのか。女性の声は幻聴ではないと確信していた。声の女性は〈敵〉ではないと判断した。狂っていようが狂ってなかろうが、もはやどうでもいいことのように思えてきた。〈アセファル〉を探し、〈アセファル〉に行くことに決めた。〈秘密の趣味〉をオープンにする時がきたのだ。

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オープン・ザ・ドア。

未完

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