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4年間母校の指導者を務めた記録

私は2020年の夏に母校(中高一貫校の中学部門)の指導者としてサッカー部に戻って以来、練習メニューの作成から戦略策定、ゲームモデル・原則・戦術の考案と落とし込むための方策までほとんど1人で担ってきた。

1〜2年時のオンライン授業に助けられた側面はあるが、授業を3限までに詰め込み、終わったらすぐに母校へ向かう生活。大学での交友関係はほとんどないが全く後悔はない。(無事、かなり余裕を持って卒業できました。)

しかし、この春から就職を機に一旦現場を離れることとなった。
(全中予選までは週末だけでもグラウンドに立つつもりだ。)

私自身はサッカー(指導)に関して優れた知見を持っているわけでも独自のメソッドもない。競技者としてのハイレベルな経験も指導歴の長さ(場数の多さ)もない。ただ、指導者を始めると同時にプレミアリーグ全試合視聴を始めるなど試合数のインプット量が多いだけ。(指導の情報は書籍やSNSの発信・記事を漁ることを通して入れてきた。)

生徒に目を向けても、超が付くほどの進学校であり、平気で鉄◯会を優先して部活を休むぐらいの熱量。

公式戦は区大会(GL→トーナメント→敗者復活戦)→支部大会→都大会という流れで新人戦も選手権も進むのだが、区大会の突破すら7年遠ざかるチーム。はっきり言ってしまえば、サッカーに関してはど底辺。

そんな、頭脳だけは1流のど底辺チームとインプット量だけは多いど素人指導者の4年間の歩みを記したい。

志望動機

(就活のようなワードを使ってしまったが採用面接があったわけはない。)

私が母校で指導者を志し、その後の熱量の原動力となったのはコンプレックスと逆張り精神だと思う。(「私とサッカーの歩み」になるので、脇道に逸れます。読み飛ばしていただいて構いません)

小学生の頃は、運動能力が低く正直サッカーを辞めたい時期もあったぐらいだが、選手名鑑や雑誌、BS1で放映される試合の視聴を通して(小学生にしては)圧巻の知識量を保有していたことを褒められることが快感でサッカーへの熱量を維持した。

中学は先述の通り「ど底辺」の中で王様になるつもりが、1つ上の代が(その後7年間成し遂げられることのなかった)支部大会進出を果たした代。ベンチ入りがやっとの状態。最高学年ではキャプテンを任されるが、コーチ不在の中で、練習メニュー作成、マネジメント、プレーヤーの3刀流。その時の同期や後輩がどう感じているかは不明だが、自分の中では全てが消化不良。メンタルバランスを崩し2度も骨折する羽目に。

中学での失敗を経て、トレーニング、戦術面の断片的な知識を齧って「モノ言う後輩」になってしまった高校時代はコーチと対立。コーチに陰口を言われたり、呼び出されて「余計なことを言うな」と叱責される始末。
1年生からリーグ戦には出ていたが、メンタル面の不調に陥り半月板を2度損傷。インターハイ予選までリハビリする気力もなく部活を辞め、勉強にも身が入らない堕落生活に。

とはいえ、サッカーへの想いを断ち切ることはできなかったし、教える・プレーする(現場に立つ)ことへの未練は観る・語る・応援するといった関わり方だけでは発散することができなかった。

初心者時代

2020年夏。コロナ禍によって学校そのものが大きく制限されていた。部活は放課後5時まで。緊急事態宣言中は活動自体できない。

途切れ途切れかつ短時間の活動。手探り状態の私は、練習メニュー本に頼り、対人メニューに終始してしまった。2021年5月からの大会が近付くと、ブロック局面の整備に注力。

そして迎えた春夏の大会では、対戦相手のスカウティングを基に、4-1-4-1と4-2-3-1の使い分けでローブロック&相手のエース封じ→サイド裏に蹴ってのカウンターとセットプレーで1戦必勝の戦い方。対人強度とトランジション、ゲームプランによって1点差のゲームを4度も制し、8年振りの支部大会進出を達成した。

要素還元

代が変わった後。少し結果を出すと、(定義は人によって異なるにせよ)「攻撃的なサッカー」に転換したくなるのは指導者の性だろうか。ただ結論から言うとビルドアップは全くと言って良いほど身に付かなかった。

原因としては私の指導が要素還元的な思考に至ってしまったこと。原則を身につけてもらうことが目的化したトレーニングを重ねてしまった。局面ごとの切り分け、設定の細かい変更がリアリティだと考えていた。

試合に向けたビルドアップやハイプレスの局面整備はハーフコートでの試合形式で実戦に近づける形で、戦術ボードを用いて説明しながらトレーニングすれば型が身につくと考えていた。

ただ、明らかに構築→侵入をスムーズに繋げ、保持による場所と時間の支配が無理だとわかった春夏の大会直前、昨年からの対人の蓄積でタフな選手が多いことを活かした戦略へ転換。盤面を広げ、陣取りから前線の個・ユニットを活かす。走力と強度で中盤を制圧する。

これにより、昨年とは打って変わって出入りの激しいゲームを演じ、結果は昨年と同等のものを残した。

この時までは、「ゲームモデル」「戦略・作戦・戦術」という枠組みの設計に気を取られ、それを実現する術を見つけることができていなかった。余談だが、観戦時の注目ポイントはこれらのマクロな枠組み+ゲームプランであった。指導と観戦の解像度・切り口は私の中で強く連動しているようだ。

エコロジカルアプローチ(的な考え)の導入

2022年夏。3年目を迎えるにあたって過去2年の反省と、それでも(学校の過去の成績に比べると)結果を出している要因を考えようとした際、影響を受けたのが、その年の冬にフットボリスタに特集された、エコロジカルアプローチ(制約主導型アプローチ)だ。

要素還元的なアプローチでは文脈に沿ったプレーができない。試合では相手を認知・観察し、課題解決をする能力が必要になる。その上でスキルをいかに速く正確に発揮出来るか。これを個人としてだけでなくチームとしても発揮する必要がある。

人間の運動学習は非線形なものであり、量をこなすことで質が向上するものではない。だから、トレーニングではチームに様々な刺激を与え、自己組織化を促すべき。ここで言う「刺激」とは、複雑系であるサッカーというゲームに必要な課題解決を促す制約を課すことで与えられる。「制約」とは、グリッドの形やサイズ、タッチ数の制限、人数、エリアの区切り方、ゴールの方法や置き方、フリーマン(とその役割が動ける範囲)など。

基本的には、ゴールを置くスモールサイドゲームの方式で様々な制約を付けることでプレイヤーに課題の認識と解決を求める。また、練習を攻略しても意味がないので毎回のトレーニングセッションでメニューは変えるべき。

ざっくり説明すると以上のようなものになる。この時は私の中でも探り探りな部分や不安もあり、個人に身につけて欲しい技術やチームとしての型を落とし込む作業は頻繁に行うこととなったが、いわゆる「全方位型」のチームへの歩みを進めることができた。

要するに、原則を落とし込むためのアプローチが要素還元的なものから制約設定によるものへと変化した。(この程度のことなので、エコロジカル「的」な思想に影響を受けたとしている。)

ただ、この年の「エコロジカル(的なもの)」は、原則を身につける部分に留まり、「全方位型」もピッチ内で課題解決をするというよりは、試合ごとに大胆に戦い方や配置を変えても混乱が起きずに実践できる、要するに戦い方の枠組みが広がった、という程度のものだった。型を複数持っておき使い分ける。そのための下地をトレーニングで養う。

「全方位型」の中でも前線の速いアタッカーの個が強み。彼らを活かすべく、制限→圧縮と敵陣人基準を行ったり来たりするプレッシングと、3と4を行き来する誘引ビルド→反転を強みとして秋春共に区大会を突破。チーム史上初の都大会進出も果たした。

集大成

エコロジカル×ゲームモデル。適切なバランスを探る旅をしようと試みているのが4年目の今、ということになる。大量のゲームを観る上での自分のテーマである、型×アドリブに通底するものがある。

エコロジカルとゲームモデルは決して相反する要素ではなく、サッカーという複雑系の中で相互に影響を与え合う。選手たちに自己組織化を促しつつも、そのための指針として原則を設定し共有する。

選手間、指導者→選手、選手→指導者のすべての相互作用に気を配る。原則を落とし込もうとしてトレーニングを設計することももちろんあるが、コーチングを過剰には行わなず、あくまで私はデザイナー・ファシリテーターに徹する。

私は(自分でも設計時点ではどのように作用するか分からない)制約を与える役割。制約・変数は、グリッドの形/エリア分け(何人侵入可能か、など)/フリーマンの人数・制約(タッチ数、可動域)/侵入・トランジションの仕方/チームの数(人数比)/ゴールの数・配置・大きさ・方法/ボールの数など。

一見、最初はカオスが生じるが少し慣れると攻略方法を選手たちが見つけ始める。すると、こちらから制約を変えたり、選手たちの方からルールやグリッドの変更の提案がなされ、新しい条件でトライする。これを毎日異なる制約で繰り返す。

とはいえ、これでは個人・ユニット単位での課題解決能力は高まるが、チーム単位での意思共有はトップダウンの要素も必要になる。そのため試合が近くなると、ビルドアップやハイプレス、セットプレーの型をいくつか装備するために実戦形式でトレーニングすることになる。

ここまで運用してみてのメリットは、やはり課題解決能力が高まること。ピッチ内において個人・ユニット単位で相手を攻略することだけでなく、ベンチからの指示でチーム単位で振る舞いを試合途中にガラッと変えることができる。変わること、それを迅速に遂行することへの抵抗感がないし、表面上の配置に留まらず、適応能力も高まっているように感じる。

また、制約の変更はその場でも容易にできるので、レストの選手を減らして稼働率を上げ、発生させる局面を増やして「参加」する意識を高められる。

逆にデメリットとしては、個人技術や型の設計にフォーカスした練習をたまに取り入れると制約過剰になって動きがとても鈍くなってしまう。個人の癖を矯正する試みも制約設定で解決したいが、(特にポジションごとに習得して欲しいスキルに関して)まだここに辿り着けていないのが現状だ。

(ディファレンシャルラーニング的な要素は導入せず終いだったが、今後ジュニア年代に関わる機会はあると思うのでそこで試してみたいと考えている。)

ゆくゆくは、生徒たち自身で様々な理論に触れ、コーチングに頼らず自分たちで練習をデザインできるようなチームになって欲しいと願っている。

自分語り

一流外資系企業に入る、資本家サイドに回る、スタートアップ経営者になる、好きなことを職にする。こういった野心を持って真っ直ぐ努力できる人間がうらやましい。「自己実現」の方向性を明確に自分で認識しているように見えるからだ。(実際のところは分からない。失礼かもしれない。)

私は暗黒の高校時代を経てからずっと自分の人生に「これじゃない感」を抱えている。何者でもない、ということはとっくに突きつけられたのに、人と違う存在でありたい欲求を捨てきれない。敷かれたレールの上を上手く歩くことを放棄したにも関わらず、レールの存在を全く気にせずに生きることもできないでいる。

自分のしたいことをして生きたいが、元いたはずのレールへの未練も断ち切れず、ずっと中途半端な意思決定と生半可な思考、努力に終始している。実際、スポーツビジネス領域のスタートアップでのインターンは長続きせず、指導者として食っていく道を模索することもなかった。

自分のこの鬱屈とした心を開示してもそれを受け止めて、真剣に向き合ってくれるような人としか接していたくない。(進路が別になったにも関わらず定期的に会って話ができる数人の友人たち、ありがとう。)

そんな自分も、実際にグラウンド立っている時には「陰の氣」から逃れることができた。どの代も同じ学校の仲間として接してくれていた(ように少なくとも自分は感じている。)良くも悪くも大人側の熱量に敏感で、相手を壁の内側に受け入れるかどうか決めてしまう残酷さを持つ母校の部員に、私の熱量が伝わったのだと思うことにする。

練習前後には生徒たちとの会話の中で自然と笑顔になることが小さな幸せだった。試合においては、冷静に戦況を見守り指示を出しつつも、心から生徒の奮闘を応援し喜怒哀楽の感情を爆発させてもいた。そんな感情を味わうことができたのも財産だ。

良くも悪くもこの先もずっと自分の人生において大きな意味を持ち続ける母校という場と、年間850試合も視聴して43試合現地観戦するほど好きなサッカーという興味対象。これらをつなぎ合わせて、母校流の強化法を「創造」し、大会で躍進し未踏の領域に「挑戦」し、愛するチームに「貢献」した。

優秀な同期達の歩みに比べたらスケールの小さなことだと思う。それでも、これが私の4年間。自分だけでも、自分のことを褒めて、誇りに思って、社会人生活に入ろうと思う。いつかまた、サッカーを軸にした日々を送れる日が来ると信じて。

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