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優しくなるための余白

幼い頃に何度か、外に出て働いている人が一番えらいと聞かされた覚えがある。それは当時ほぼワンオペ主婦だった母親が自分を納得させるために繰り返していた面もあるとは思うが、紛れもなく社会からの要請だ。

他人に迷惑をかけず自立して生活しろ、稼げる人になって納税するべきだ、役に立つ人になるべきだ。そういう要請をずっと受けてきたし、そういうものだという刷り込みに基づいて私たちは社会を営んでいて、だから社会は「普通」から転がり落ちなかった人向けの構造になっていて、余白が少ない。

みんな支え合っているというのは綺麗事で、実際のところ支えるよりも寄りかかる方が多い弱者というのは存在する。そういう人への目が厳しくなるのは当然とも言える。穀潰しは死ね、と思うとき、あなたは頑張りすぎている。

だって、私たち自身が、何もしなくても生きていてよいのだと誰にも言ってもらえなかった。

子供の頃、なぜだかずっと、テレビで見る「アフリカの恵まれない子供たち」が羨ましかった。単に同じように死にたかったからかもしれないが、テレビから、彼らは先のことは考えず今は生きているだけでいいのだというメッセージを受け取っていたからだと思う。実際に生きられる状況にあるのは日本で生まれた私だったし、おそらく「アフリカの恵まれない子供たち」の置かれた環境には子供の人権がない。だから不謹慎ながら、条件なしに生きているだけでいいというメッセージが彼らに対して発せられた、その一点で羨ましかったのだ。

ずっと不幸になる権利が欲しかった、もう頑張らなくていい根拠が欲しかった。診断書という形でそれを手に入れた時、私は実際のところそれまでよりもずっと心が軽くなった。今は社会的身分と言えるものを何も持っていない。私は立派な大人にはならなかった。でもいいんだ、これくらい身軽でないともう少しも歩けないところまで来てしまった。何者でもないくせに生きている自分を受け入れた時、初めて、寄りかかるばかりの人たちに優しい気持ちになれた。生産性がなくとも生きていていいのだと、今はもう自分にも他者にも言ってあげられる。

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