誰が女を決めるのか—トランス女性差別に見る女性蔑視

(以前welongというメディアに投稿したものですが、ここ最近のJ.K.ローリングの差別発言や映画『ミッドナイトスワン』にみられるトランスジェンダーの排除・蔑視を受け、こちらに再掲することにしました。welongは今記事をアーカイブに移動させお休み中です。)

◆シス特権の自覚

みなさんは、外出先で男性用と女性用、どちらのトイレを使いますか?もしあなたが違和感なく選べているのなら、今回取り上げる問題について、あなたはマジョリティです。

今回のテーマに合わせて自己紹介をします。

私はシスジェンダーの女性(以降シス女性)です。生まれた時に女性であると判断されたため戸籍上も女性で、女性として生活することを間違いだと思ったことはありません。自分が女性とされる体を持っていること、妊娠可能であることへの嫌悪感はありますし、将来的には子宮を取りたい気持ちもあります。ジェンダー規範(男は男らしく、女は女らしく)に従うことへの抵抗感もありますが、これらは性別違和とは別の話だと前置きしておきます。また、シス—トランスの軸において私はマジョリティの視点しか持っていないため、その視点からお話しします。

男女で分けられたトイレのいずれかを選んで使うことができる、それは現状多くの施設のあり方において、マジョリティの特権です。しかしその特権は私たちにとってあまりに当たり前であるため、自覚されることはほとんどありません。男性の多くは男性用、女性の多くは女性用のトイレを「これは私たちの特権だ」と思うことなく使うでしょう。これは構造上の問題で、社会がマジョリティに合わせて作られており、私たちはマジョリティとして日常的に不便を感じることなくその恩恵を享受しているため、気をつけているつもりでも自分の特権性に気づけないのです。

さて、どうしてトイレの話をしたかというと、「一部の」という言葉で切断することができないくらい多くのシス女性が、「トランスジェンダーの女性(以降トランス女性)が女性用トイレに入ってくるのは怖い」と発言しているからです。さらにショックなことに、この声はフェミニストを自称する人からも発せられています。排除の声はトランス女性の人権を著しく侵害していますが、どうしてこのような“不安”が出てしまうのでしょうか。私は、女性たち個々人の被害体験と、「女性以外」を排除するフェミニズムのあり方に原因があると思っています。ですので、今回はシスジェンダーというマジョリティとトランスジェンダーというマイノリティの軸から特に女性に注目して考えていきます。

まず「傷ついたシス女性」の声に耳を傾けてみましょう。

◆恐怖心による差別の正当化

素朴に発せられている彼女たちの主張はおおかた

「トランス女性は女性であるというのは認めるけれど、男性と見分けがつかないトランス女性まで女性用トイレに受け容れたら、それに紛れて性加害目的の男性が入ってくるかもしれない。私たちはそこらじゅうで性犯罪の被害に遭っている。女性用トイレを危険なスペースにすることを受け入れろだなんて。女性はいつも我慢を強要され、口を塞がれる。恐怖の表明さえ差別だと言われるだなんて酷い。」

というものです。

ここには幾重にも差別があるのですが、彼女たちがここまでの差別をしてしまうのには、人生を狂わせるような性被害を男性加害者から何度も受け続けたという背景があります。彼女たちの苦しみは被害を受けた時から何年も続いており、過去はなかったことにはならないので苦しみに終わりはなく、傷ついた尊厳が回復することもありません。「安心して生きられる場所がどこにもない」という“生存から疎外された感覚”には、私も共感する部分があります。そして、男女の軸でとらえたときに女性の声が聞き届けられにくい、発言を阻害されるというのは事実です。

彼女たちには心の傷についてケアを受ける権利があります。しかし、「私は傷ついている」ことは他の誰かを排除することを正当化できないのです。

恐怖心は差別や排除の正当化に使われてきました。差別は人を殺します。そして今、トランスフォビアがトランスジェンダー当事者を苦しめています。

シス女性が犯罪者として想定している男性への恐怖心をトランス女性にぶつけ、恐怖心のケアを求めているところにも、シスがマジョリティである権力の構造を見ることができますが、今回は本題でないためこの指摘にとどめます。

そして、ひとつことわっておきますが私は「トランスジェンダー」「トランス女性」を定義しません。マジョリティには名前をつけられないのにマイノリティには名前がつけられ定義を求められる、これ自体が差別です。そして、マイノリティを定義して更に分断することで、「社会の中で認められるマイノリティと認められないマイノリティ」という線引きをしてしまうことになります。

例えばトランス女性当事者同士が、お互いの性別移行の度合い(パス度)を見て「女性に見えるから女性用スペースを使った方がよさそうだ」という話し合うことは、現在の(彼女たちに不便を強いている)社会における生存戦略ですから、それが咎められる必要はありません。しかし、非トランスジェンダーが「パス度」や性別移行手術をしているかどうかに言及することは、それ自体が差別として機能することに自覚的になる必要があります。

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◆「誰が女を決めるのか」

「傷ついたシス女性」は一見するとミサンドリー(男性嫌悪)に支配されているようですが、彼女たちがトランス女性への差別心を表明するとき、その根底には二重のミソジニー(女性嫌悪)があるのです。

まずひとつ目は、「傷ついたシス女性」は自身の性被害や女性として差別されてきた経験のために、自分が女性に生まれてしまったことを恨んでいるということ。

そしてふたつ目は、「ある人物が女であるかどうかを他人が決められる」と思っているということです。これはルッキズム(容姿による差別)の問題とも大きく関わってきます。

ここでやっと本題に入れます。「誰が女を決めるのか」。結論から言えば、誰が「正しい女」であるかを決めることは誰にもできません。原則として自認、より正確に言えば本人のアイデンティティが、自分が何者であるかを示します。その人に女性用スペースが必要かどうかは、本人が決めることです。

性別二元制は科学的事実ではなく思想です。そこに当てはまらない人がいることを無視してもよい要素だという考えがあってはじめて、生まれた子供を男か女かのいずれかに分けるのです。

女であることは科学的事実であり動かないと考えている人がいますがそれは違います。医療においても何が病気であり治療対象であるかということは、科学的事実のみならず、社会からの要請によって規定され、社会の変容とともに変化してきました。性別を男か女かに分けることは、社会からの要請があってこそ成立しています。

「性適合手術を受けたトランス女性は女性として扱う」という意見も見られますが、あるマイノリティ属性を分断して「正当なものと認めた」裏には必ず、線を引いた向こう側の排除があることを忘れてはなりません。

個が苦しみを感じているとき、それは治療されるべきものなのか、社会が変わるべきことなのか。人ひとりに適応を強制したり、排除したり、殺したりすることの方が社会全体を変えることより早いからといって、より低コストである方に流れていってはいませんか。

また、「女性に見えるトランス女性ならば、女性用トイレに入ってもよい」という意見もありますが、これも女性が常に向けられてきた「女らしくあれ」というジェンダー規範の強化にほかなりません。どんな顔つきや体格であっても、化粧をしていなくても、髪を短く切っても、ヒールのパンプスを拒絶しても、私たちは女で、女性の規範を外れたことを理由に不当な扱いを受けてはならないのです。女に見えるかどうかによって女であるかどうかを決めるのは、ルッキズム(外見による差別)であるといえます。

女性たちは、痴漢被害にあったことを告発するだけでも、「その容姿では狙われないだろう」と嘲笑され、「服装が扇情的だったのだろう」と被害を軽視され、「正しい女であるかどうか」の判断を下されながら、侮辱され排除されてきました。

フェミニストたちは、女がどのようにあるべきか、そして誰が女として「認められる」のかをジャッジする視線とこそ戦ってきたのではなかったのですか。

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本来はこんなこと—トランス女性が女性用トイレを使えるようにすべきかどうか—を「議論(敢えて鉤括弧付きにします)」すること自体が人権侵害なのです。男女で分けられている施設は、トランスジェンダー当事者たちの努力と配慮によって、問題なく運用されているからです。それも、私たちがすでに共に生活していると気づかないほどに。

そして、私はここまで意識的に、マイノリティを「認める」「受け容れる」という表現を使いました。私たちはマイノリティについて語る時にこれらの言い方を何の気なしに使ってしまうけれど、その「判断を下せる立場にあるのは自分の側だ」という考えは「見る−見られる」「何者であるかを判断する−判断される」という非対称な関係への疑いがなく、特権性に無自覚であり傲慢であるとしかいいようがありません。

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◆「受け容れる」「理解」の暴力性

少し話を広げて、「性的マイノリティへの“理解”」、そしてマジョリティとマイノリティの非対称性の話をします。

日本は伝統芸能やその他の芸術において性別越境が見られるので性的マイノリティにとって生きやすい国だという言説を見かけますが、それはマジョリティに「受け容れていただく」ためのクッションであり、事実とは言い難いでしょう。

私たちは日常的に「オネエキャラ」の芸能人や漫画の登場人物を目にし、ボーイズラブやガールズラブといった同性愛を扱う作品に触れる機会もあります。だから自分は性的マイノリティに理解があると思っている人もいるでしょう。

しかし実際は、それらの表現に触れることによって、私たちは「われわれとは異質なもの」として客体化し消費するやり方を学習し、「理解を示している」というポーズをとることができるようになったにすぎないのです。

LGBTQに限らず、マイノリティの声が大きいと煙たがる人がいます。我々の多くが、なぜ声をあげる必要がないのか。それは、社会がすでに我々に配慮しているからです。すでに配慮されている人は、声をあげる必要がない。だから無視されてきた人ばかりが、配慮配慮とうるさいと言われるのです。マイノリティに「声をあげるコスト」を割かせておきながら無視する選択肢がある。更にマジョリティは、マイノリティを「受け容れる」に値するかどうか、自分にとって納得のいく説明を得るために、もしくは納得しないために、いくらでも「なぜこれが差別にあたるのか」と説明を求めます。マイノリティにとって差別が解消されないことは死活問題ですから、マジョリティの問いかけを無視することができません。マジョリティは無視する選択肢があるがマイノリティには選択肢がない。この権力の非対称性に、私たちは気づかねばならないのです。

「マイノリティを受け容れる」という言い回しは「マジョリティの価値観と今の社会の仕組みを脅かさない範囲で存在してね」というメッセージを発しています。いくら「理解を」と呼びかけられていても現実に性的マイノリティは抑圧され排除されています。「多様性を理解し受け容れる」とか「寛容さ」の問題ではありません。私たちは自らの差別意識の根拠となっている異性愛規範や男女二元論的価値観を根底から見直そうとはしていなかった。それこそが問題なのです。

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◆フェミニズムの根幹にある問題点

フェミニズムは女性によって語られるべきという考えは、これまで男性の視点で語られてきたことの主語を「人間一般」としてきた無自覚への批判的な姿勢でもあり、フェミニズムが女性の視点から語られていることに自覚的であろうとする試みによるものであるという側面があります。

しかし、「女性以外」を排除するフェミニズムは危険です。理由をつけて誰かを「われわれ」からはじき出すことを一度正当化してしまえば、フェミニズムは「誰が女であるか」を決めて、線を引くことで次々と排除と差別を繰り返していくことでしょう。

男性優位社会の被害者はその社会の構成員すべてであり、フェミニズムはジェンダー規範に苦しむすべての人を救いうると私は考えています。

「私が女と認める女だけを救うフェミニズム」というあり方を反省できない限り、フェミニズムに未来はありません。ただ新しい差別を生み出すだけの思想になってしまうでしょう。

厳しい言い方だと感じた人もいるかもしれません。もちろんあなたを含め、誰の傷も軽視されることなく、誰かを後回しにすることなく、誰かを排除することなく、加害にさらされず安心して生きられる社会にしていきましょう。

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