生きてるってだけで被害者みたいな気持ちにさせないでよ世界

行き場の無い悪意が徳の高い人を殺したとか
働く人の不遇だとか
誰もがどこかの切り口で差別者であり被差別者であるとか
就活生が自殺したとか
大学院生がうつ病になったとか
何事も自己責任や当然のことといって他者に同情できない人とか
それは社会全体の余裕の無さに起因しているとか
身近だったり遠かったりする色々なしらせに蝕まれる。

それらは、社会の構造上そうなるのが(許容されるべきことでなくとも)自然であったり、認知バイアスで説明がついたりする。でも全員の啓蒙は難しいし構造をまるごと変えるのも難しい。目標が大きければ途中経過は人に理解されづらく邪魔されるものだ。先を見通せない。希望なんか抱いたそばから腐っていく。なんかの腐敗物が残った。汚い。

理不尽としか言いようのないニュースを耳にしても、もう怒りも湧いてこない。こんな世界で生きている、それだけのことによって自分が被害者のような感じがする。

現実における多様性とやらを飲み込める気がしない。到底許せない物事を、現実のこととして認められない。存在が許せない。(多様性という言葉を正しく理解できている自信はないけれど、意味の拡大や縮小はここではナンセンスなので置いておく。)

みんな違ってみんな仕方ない、ではすまされないことは多々あって、対話不可能なうえ、お気持ちと価値観を振りかざして体当たりしてくる人が、どういうわけか存在する。もちろん実害がある。自分とは無関係の世界のことだと思えたらいいけれど、実際のところ無関係ではない(「私が世界を見ている」というより「世界に私がいる」と思っている)ので。そして誰かにとって私も、などと考え出すと吐き気がする。

自分と関係する範囲の理不尽ならまだ救いようがある。犯罪被害者が自分を責めるのは、実際に落ち度があるからではなく、辻褄合わせをしているのだ。傷ついた人にとって何より恐いのは、他者に絶望することであり、そうなるくらいなら自分に絶望したほうがずっとましなのだ。
しかし、どこか遠くで起こる理不尽な事件は、ただ絶望でしかあり得ない。自分を嫌うことに変換できない。

怠惰と諦めだけがこの世界で救いだ、生きるにはそれしかない、世界を許すってそういうことだ。

許せないことに立ち向かうほどの気力もないし、かといって見過ごすこともできないし、逃げ切れる自信も無い。許せないことが許されるべきでないことかどうかを吟味するだけで一生を終えてしまいそうだ、とても付き合いきれない。

私になにかできたとして。私がたたかうことを放棄しているために理不尽に苦しんでいる人がいるのだろうな。私が動かなかったせいで死んでしまった人がいるのだろうな。この世界は、私の目からは、ただ私が「何もしなかった」結果で、私に責任がある、ことに、してしまおうか、世界に絶望しないために。

罪悪感とやるせなさで身が持たなくて
結局今日も何もしていなくて
考えると苦しいので
お薬でぼんやりさせることを選んだから、もしかしたら今日生きていたはずの誰かの場所を奪って生きている。

とりとめもなくてごめんなさい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?