あの時のあなたは、本当は傷ついてよかった

「キスくらいで騒ぐなよ、大袈裟な。」
女子高生が性的に搾取された問題について、芸能人からも一般からもこのような声があがったことに、私は正直、驚いていない。
(具体的に思い浮かばない方はこちらを。)


立場を明らかにすると、私は女子高生には一切非がないと考えているけれど、事件そのものについてここでは語らない。
(被害者に非があると思ってしまう人は公正世界仮説という認知バイアスを自覚しましょう。こちらです。)
ただ、100%被害者の味方だよと言い切れるにも関わらず、事件を知ってすぐは、胸の奥が膿んでいくような暗い気持ちになった。
明確に、あれは、嫉妬だった。

どうしてこんなに惨めな気持ちになるんだろう、何よ、キスくらいで騒いじゃってさ、私も、そう思ってしまった。
すぐに自覚した。「いいなあその子は、キスくらいで、嫌だった、助けてって言えるくらい自分をちゃんと持っていて。きっと素行もよくて信用もあって、誰かが味方になってくれる自信もあったんだろうな。」

嫉妬心を言語化できて、泣いた。

自分が我慢してきたことを「本当は我慢しなくてよかったのだ」と知ることは辛い。過去はなかったことにはならないし、死んだ心は戻らない。

キスくらいで大袈裟な、という声から感じ取ったのは、自分を大事にできなかった彼女たちの無念だった。あれは、どこか遠い他者間のいざこざではなくて、“たかがキスされたくらい”で傷つくことができた自分を失ってしまったことを、認識してしまう出来事だった。
誰もが、たくさん我慢してきた。悔しいと感じることも悔しいから、何も感じないでいられる心に作り変えて自分を守った。「自分にも非があったかも」とか「この人とは仕事の付き合いもあるから」とか、理由を付けて殺したはずの過去が胸の疼きとなって、私たちはまだ死ねていないんだと叫んでいる。

誰かの告発によって、自分も被害者であったことが判明する、ということは、今後もきっとある。
そういうときは、被害者を「たったその程度で傷つくなんて」と責めるのではなくて、
あの時の私は傷ついてよかったんだ、人を恨まないために自分を嫌いになる必要はなかったんだ、という気づきにしてほしい。
感じてはいけない感情はなくて、今やっと、それを表明していい環境になってきたのだ。

近い境遇の他者を責めているうちは、傷ついた過去を乗り越えられてはいない。
(暗い感情や嫉妬心は、感じてはいけないことではないので、感じなかったことにはせずに、怒りの矛先だけ誤らないように。)
認知の歪みの自覚と、置いてきぼりにした感情を回収することを繰り返して、無念だったね、ごめんねって、いつかきちんと葬送するつもりでいよう。


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