お誕生日おめでとう、ありがとう

8月13日、私は24歳になった。まさかこの日を迎えるなんて思っていなかった。

綿密なはずだった自殺計画の甲斐もなく、私は案外しぶとくて、自分なりに忙しくしていたら「新年なんて迎えてなるものか」「24歳なんて迎えてなるものか」という節目を超え、生きていた。「2020年は迎えたくない」「30代にはならない」なんて今は思っているけれど、今まで通り惰性であったり時にやる気を出したりしながら生き延びてしまうかもしれないし、今こんなふうに考えていたことも忘れてしまうのかもしれない。

誕生日だからといって何か特別なことがあるわけでもなく、道路に飛び出したトノサマバッタが最初はうまく跳び上がったものの車のフロントガラスにぶつかり、そのまま二台、三台と車が通り過ぎていくさまを眺めていた。オオカナダモがもうすぐ咲きそうだな、とも思った。あとは足を前に進めることだけ考えて歩いた。今日は普通の日だ。

些細なことだ、ここに挙げたことは全部些細なことなんだけど、そう感じてしまうことはおそろしい。きっと疲れている。
ありがたいことに、忙しくなってきた。自分の内面を見つめる時間がなくなった。深く抉られるような喜びを得てそれそのものに絶望するみたいな感じかたは、今はできそうにない。

疲労がたまると感情が鈍くなる。「忙しくしていたら悩む暇なんかなくなるよ。」だって。そりゃあそうだ。悩めるほどの空き容量がない。自分の中が片付かなくなってくるし、それが結構どうでもいいことのように思える。鈍化してみて思う。私は忙しくして、「悩む暇なんかない」を得意げに言える人間にはなりたくない。それは疲弊だ、ただの疲弊だ。

白いレースのカーテン越しに窓からさす光はやわらかく、飼っている猫は体温の匂いをさせながらお腹を見せて寝ている。これは、本来ならば胸が潰れるほどの幸せなのだ。こうして情報として受け取って、味気なく書き出していいものではない。

心を潰してまでやりたいことがあるなら別だけど、肉体を生かすために忙しくしていたら心が死んじゃってた、だなんて、死ぬタイミングも逃しちゃうので、もうちょっと丁寧に絶望を拾っていく毎日にしたい。

ともあれ、誕生日を迎えた私に、おめでとうと声をかけていいと思ってもらえるようになるとは。違和感なくありがとうと言える日が来ようとは。絶対に出口なんてないと強く思い込んでいた、その割には、人生は良くも悪くも思った通りにはならないらしい。

私は今日も生きていて良かったです。ありがとう。


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