いっそのこと「アフリカの恵まれない子供たち」ならよかった。

不謹慎を承知で言うけれど、幼い頃から「恵まれていないならよかったのに」と思っていた。恵まれているのだから努力しなくてはならなかった。恵まれているのだから現状に不満を言ってはいけなかった。自分で思考できるようになって、それが迷信だということがわかったけれど、ずっと、自分は「できない」ことの言い訳を剥奪されている気分だった。

発達障害が“流行”している。敢えてこの言葉を使おう。素人の私の目にも発達障害ではない人まで、その名前を勝ち取りたくて必死だ。納得のいく診断が出るまで病院を転々とする人さえいる。
彼らが実際のところ診断名の付くかたちで障害を抱えているかはわからないしどうでもいいことだけど、それを生きづらさの理由として欲するくらいには、追いつめられているのだ。これは確かだ。

「○○できた奴は発達障害を名乗るな」のような排斥は溢れていて、ある種、病名を手にした者たちが特権階級を侵されるのを恐れての暴力である。
診断のために病院を転々とする人が存在することが、障害の診断を出すかどうかの基準が確立されていないことを裏打ちしている、つまり診断さえ疑いようがある。だから障害の有無に私はあまり興味がないのだが、診断名があろうとなかろうと、手を伸ばす人たちの主観的な「生きづらさ」は疑いようもなく存在している。

「他の誰かと比べてましな状況だから弱音を吐いてはいけない」というのが論理性を全く欠いているのは明白なのだが、世の多くの人にはそれが理解できないらしい。
誰と比べてどうだろうと、苦しいものは苦しいでしょう、あなたの苦しみはあなたにしか経験できないのに。もっと苦しい誰かが代わってくれているわけでもないのに。簡単に「努力して乗り越えうる、だってあなたは恵まれているから」と言われてしまう。

いっそのこと、アフリカの恵まれない子供たちならよかった、インドに生まれてカースト制で職業が決まっていればよかった、持病があればよかった、「できない、もう頑張れない」と言うためのわかりやすい理由があればよかった。誰でも一度は考えたのではないだろうか。

通り魔に遭って死ねたらいいな、自分の真上だけ建物が倒壊したらいいな、いろいろな天災で、死んだのが私だったらよかったのにな、なんて理不尽、なんて無作為、今日も望まず恵まれ続ける。

こんなこともきっと、望まず死んでしまった、望まず転げ落ちてしまった人への冒涜だって攻撃されて
ぐらつきながらもギリギリのところで踏ん張って、耐えている「恵まれた」人たちは、いつか、私が堂々と不幸になれる正当な理由を恵んでくださいと
願っている。


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