疲れてなんかない

私が正しく在ろうとすることそれ自体が誰かにとって暴力になりうるということは、個々に人格があり、私の知らない時間があり、だからそれぞれにある程度仕方ないような利害がある、それ以上のことを意味しない。

そうだとしても、そのままで止まってしまうのであれば、怒りが自分に向いてカッターの刃に錆をつけるのと同じくらい無益であるし、正しさの主張に私の溜飲を下げる以上の働きは無い。

こんな世界に生きられるものかと思う時、私は本当は、お前らを殺すより自分を殺す方が早いと思っているに過ぎず、それに悲しみを纏わせることで見栄えをよくしている、一度そう考えはじめると妙に納得してしまうものだ。

これは主観を超えないが、辛いことが重なると言葉は閉じていくらしく、したがって、私は誰に向けて話しているわけでもない。腹を割いて内臓をぶちまけるところを、人に見せつけたいような気持ちで書いている。

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