私の友達の話

マグカップを見かけると深い紺色のものに目が行く。でも、あのマグカップはもっと大きかったとか、釉薬のムラがなかったとかケチをつけてしまって、結局ずっと買えずにいる。

あの子と友達になってもう7年以上経つ。茶色い髪もカールしたまつげもふわふわしていて天使みたいなのに、孤立するでもなく周りに馴染もうと媚びるでもなく飄々としたところが素敵な人だ。

どんな流れだったかも忘れてしまったけれど、その子の家でコーヒーを飲みながらお喋りして夕方に解散するみたいな関係が、特に用もないのに続いた。数年の間に私が色んな人と付き合ったり別れたりするのを、興味津々というわけでもなくかといってつまらなそうでもなく傾聴してくれるのが心地良かった。儚げな外見なのに弱々しいどころか大きな声でゆっくり話すところも好きだった。いつも紺色のマグカップに、一杯分ごとに包装されたドリップコーヒーを淹れてくれた。

私は芸術を楽しめない人間で、それを少し恥ずかしく思っている。芸術を鑑賞するには教養というハードルがあって、音楽も絵画もお笑いさえも、お高く止まりやがってと恨めしく思う気持ちすらあった。あの子は私にはよくわからない音楽を聴いて、なんだかカッコいい雑誌を読んで、演劇とか中洲ジャズにも足を運んだりして、きちんと整頓された部屋におもちゃのピアノとか絶対使わないようなガラクタが置いてあるところも、こっそり憧れだった。

紺色のマグカップが欲しいけれど、本当はもうあのマグカップがどうだったかはっきりとは覚えていなくて、純化されすぎてしまった思い出を投影できるものなんて見つからないこともわかっている。大好きだった部屋の匂いも思い出せないのに、あの子がファインダーも覗かずにフィルムカメラで撮ってくれた写真はブレていて明るすぎて、笑った私の恥ずかしそうな顔も、どうしようもなく大好きなあの時間だった。

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