見出し画像

バレリーナをあきらめても

「大きくなったらなりたいものを絵にかきましょう」

幼稚園の七夕行事。
笑顔の先生は、私たち一人一人に細長い紙を渡した。

紙を受け取った私は、すぐにクレヨンを握る。何を描くかはもう決まっていた。可愛らしい衣装を着て踊るバレリーナ。毎月楽しみに読んでいる雑誌に、プリマドンナを目指す女の子の物語が連載されていて、私はそれにあこがれたのだ。

まわりの子たちのはしゃぐ声を聞きながら、私は黙々と手を動かす。でも、描けない。手を広げ、片足を美しくあげて踊る少女の姿も、まっすぐに前を向く彼女の視線も、心の中にはくっきりと浮かんでいるのに、私はそれを描くことができない。こんなんじゃない。クレヨンを握りしめた手は、あっという間に色鮮やかに染まる。

「もうこれでおしまいね」

何度もやり直しの紙をもらう私に、先生が困ったような優しい声で言う。うなずいた私は、再びクレヨンを持ち、紙に線を走らせる。そして、ただまっすぐに立つ女の子の絵を描き、その頭に十字のしるしのついた帽子をかぶらせた。

いいんだ。二番目になりたいのはかんごふさんだから。
これでいいんだ。

笹に飾られた短冊をながめ、幼い私は自分に言い聞かせた。だけど、その時の「私はあきらめたんだ」というわだかまりは、何十年がたっても、ずっと私の中に残り続けた。

結局、私は、バレリーナにも看護婦さんにもならずに、文章を書く仕事をしている。

文章を書いていると、時々、バレリーナを描こうとして、がんばってもがんばっても描けないあの時と、同じ気持ちになることがある。本当は書きたいものがあるのに、それがわかっているのに、どうしても書けない時。どんなに時間をかけても、工夫しても書けなくて、結局、自分が書ける言葉で手を打つしかないと、思い知る時。

下手くそなバレリーナだっていいから、最後まで描いてみればよかったのに。そんな風にも思うけど、まあ、それはどっちだっていい。

大切にしたいのは、自分の中に、間違いなくあらわしたいものがあったんだということ。それに懸命に手を伸ばそうとしたのだということ。それを忘れなければ、いつか、サラリと、踊る少女の絵が描けるかもしれない。ならなかったとしたって、いつか、その思いが、他の何かに生まれ変わるかもしれない。いびつに描かれたバレリーナが、長い時間をかけて、こうして文章を生み出したように。

あきらめるというのは、いつだって「とりあえず」だ。もう絶対に永遠に未来永劫だなんて、決める必要はないし、決めたってひっくり返ることはしょっちゅうある。だから、今の私が表現できないものも、いつか、未来の私がなんとかしてくれるかもしれない。何かにつながっていくかもしれない。そんなことを考えて、今日も私は、前向きに、少しずつ、とりあえず何かをあきらめる。

サポートいただけると、とてもとても嬉しいです。 もっとおもしろいものが書けるよう、本を読んだり映画を見たりスタバでものを考えたりするために使わせていただきます。