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毎日、天使をつかまえにいく。

娘のお迎えが好きだ。

娘の通う保育園では、6つの部屋が園庭に面して並べられている。
ばらぐみ、ももぐみ、ゆりぐみ、そらぐみ、つきぐみ、たいようぐみ。
美しい名前のつけられた部屋の壁は、それぞれ、名前にちなんだ色をしている。
ガラス扉の向こうで、色とりどりを背景にして、子どもたちが飛び回る。

私たち保護者は、園庭のなかほどを通って、わが子のいる部屋へとすすむ。
今の季節、もう17時を過ぎるとあたりは薄暗い。
夜のはじまりに満ちた園庭から見る部屋のひとつひとつは、まるで映画のスクリーンのように見える。
まるで、宇宙にぽっかりと浮かんだ島のように。
まるで、天使たちの遊ぶ、神々の国のように。

私は、その光景に、毎日毎日、初めてのように感動しながら、明かりに向かってすすむ。

イヤイヤ期の娘と過ごすのは、正直、楽しいことばかりではない。
保育園の門をくぐる時には、いつも少しばかりのわずらわしさがまとわりつく。
それから、やっぱりかすかではあるけれど、しつこい罪悪感と。
だけど、明るい方だけを見つめながら、砂場やおもちゃのような色をした遊具の横を通り過ぎているうちに、それらはただの喜びにとってかわる。
数時間ぶりに娘に会える喜びに。

それでも、部屋の前にたどり着いた私は、すぐにはガラス扉を開けない。
入口間近の薄闇にまぎれて、部屋の中をうかがう。
そこでは、愛しい娘が、絵本に見入っている。
ただただ、積み木を積み上げている。
白い画用紙に、真剣なまなざしでクレヨンを走らせている。

私はその光景が好きだ。
私の存在に気づかないでいる娘の表情。
私が知らない娘の仕草。
私がいなくても確実に存在する娘を確認すること。

なぜ、愛しい人の無意識はこんなに愛しいのだろう。
昔からそうだった。
隣にいる恋人が、まるで私の存在など忘れたかのように、何かに意識を注ぐ瞬間が好きだった。
その無意識に触れたくて、ふと横顔に手を伸ばした途端、その無意識が失われ、私に笑顔が向けられるのが、とても残念で、とても幸せだった。

娘もおなじ。
私がガラス扉を開けるやいなや、娘の無意識は跡形もなくなり、毎回、何年かぶりに会ったかのような満面の笑顔を浮かべ、私に抱きついてくる。
私はほんの少しの落胆と、その一億倍の幸せでもって、娘を抱きとめる。

私は娘の無意識をつかまえることはできない。
私が私の無意識に出会えないように。
「今日もダメだったなあ」
私は毎晩、わかりきった落胆を胸に、眠った娘を抱きしめることでお茶を濁しながら、幸せをまとって眠りに落ちる。

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