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君の髪が好きだ

髪ばかりをほめられてきた。小さな頃からずうっと。

大人たちは、いつも「サラサラでツヤツヤ」と楽しそうに幼い私の頭を撫でまわし、思春期の頃にはいつも友人たちに羨ましがられ、街で「あの子の髪の毛すごいきれい」と指を差されることもめずらしくなかった。

大人になり、親しくなった何人かの男の人たちも、やっぱりほめるのは私の髪の毛ばかりだった。メイクもファッションもそれなりに気をつかって、見た目もそれほど悪くないつもりだったし、性格だって多少めんどくさいところはあるものの基本的に穏やかな方だと思うし、時々は面白いことや気のきいたことも言えてるはずだし、他にもいいところはあるはずなのに、彼らは、まるでそれだけが目的だったかのように、暇さえあれば私の髪に触れ、これでもかと賛美の言葉を浴びせかけた。

嬉しくはなかった。嬉しいわけがなかった。なんだか、ほめられるたびに、髪の毛の方が私の本体だと言われている気持ちになった。

思い切ってうんと短くしてしまおうかとも考えたけれど、もしそれで、誰も私に価値を見出さなくなったらと思うと、恐ろしくてできなかった。それどころか、ほめられるほど、私は髪の手入れに力を入れた。ため息をつきながら高価なシャンプーを買い、うんざりしながらヘアオイルを塗り込み、呪いの言葉を吐きながら天然高級猪毛のブラシで髪を梳いた。

夫と出会ったのは、もう、男の人とつきあったりするのはやめようかと、ちょっと本気で考えていた頃だった。

夫は、私の髪をほめなかった。といって、髪以外の私、性格や知性や能力や顔や体型や仕草や表情、そういったものをほめるわけでもなかった。つまり、彼は私のことを一切ほめなかった。だけれど、それはどうでもいいことだった。私は、ほめられたかったわけではなく、きちんと愛されたいだけだったのだ。

私たちは結婚し、やがて子どもが生まれた。赤ん坊は女の子で、彼女には、ほとんど髪の毛が生えていなかった。柔らかで美しい丸みには、言い訳のように、フワフワとした産毛が揺れているだけだった。

はじめのうちは、他の赤ん坊の黒々とした髪を見るたびに心配になったものの、すぐに気にならなくなった。周囲の人間も「そのうち生えてくるよ」と言うし、それに何より、髪の毛なんて関係なく、娘は愛らしかった。

よい夫だった夫は、そのまま、よい父になった。娘を溺愛し、乳を与える以外の世話は何でもやった。着替えも、オムツ替えも、寝かしつけも。産後の痛みのせいで動けない私の代わりに、イヤな顔ひとつせずに家事もこなした。よい父親になるだろうとは思っていたけれど、これほどとは。それに比べて、私は。そう思うと、痛みや寝不足に不満を抱く自分がちっぽけに思えた。

だから、その時も、私は何も言うことができなかった。

その日、会社から帰宅した夫は、いつもの通り最短距離で娘の元へと歩み寄り、優しい声で「ただいま」と言った。そして、ベビーベッドに転がって熱心に自分のこぶしを舐め回す娘の頭を撫でながら、「早くママみたいなきれいな髪の毛が生えてくるといいね」とささやいた。

聞こえてきた言葉に、私は一瞬耳を疑い、それから、夫がつけ足して何か言うのを待った。たとえば、今のは冗談だとか、言い間違いだとか、何かの比喩だとか、そういう説明をしてくれるのを待った。だけど、夫は何も言わなかった。何も言わないまま、娘の頭を愛おしそうに撫で続けた。

そうか、そうだったんだ。やっぱりあなたも、そうだったんだ。

本当は、今すぐに、「髪の毛なんてどうだっていいじゃない」、そう言って夫をなじりたかった。だけど、娘を抱き上げて「あれ? そろそろ替えようか」と手際よくロンパースを脱がしはじめた夫に「ごめん、そこのオムツ取ってくれる?」と笑顔で言われた瞬間、私は怒りの言葉と感情を、ゴクリと喉の奥へと飲み込んだ。

抜け毛が始まったのは、ちょうどその頃だ。真夜中、乳を求める娘の泣き声で目を覚ますと、枕の上には今まで目にしたことのない量の抜け毛が散らばっている。日中、娘をあやしながらふと自分の髪を梳くと、するりと抜けた髪の毛が幾本も指に絡みつく。

圧巻なのは入浴時だった。

夕方、夫の帰宅前、娘が眠った隙にお風呂に入る。あわただしく服を脱ぎ、お湯を浴び、髪を洗う。全部が済んだ後の床には、おびただしい量の髪の毛が濡れてはりついている。私は、もう決して美しくないそれを踏みつけながら、私の髪が全て抜け落ちてしまったら、夫はどんな顔をするんだろうと考える。

実を言うと、抜けた髪だけでなく、私につながったままの髪の毛たちも、美しくなくなってきたことに、私は気がついていた。きっと、美容院に行く時間も手入れをする時間もないせいだろう。私の髪の毛はボサボサでパサパサだった。洗面所の前の鏡に立ち、乱暴に手を動かしながらドライヤーで髪を乾かすと、あちこちに絡まり合った塊ができた。

服を着てリビングに戻ると、入浴前と何も変わらない様子で娘は寝息をたてている。私はその頭を撫で、「ママだけは、どんなあなたでも大好きだからね」とささやき、一人涙ぐんだ。

それから少したった休日の夜。娘の寝かしつけを終え、夫と二人、リビングで映画を見ていた時のことだ。

「ねえ、髪の毛のことなんだけど」と、夫が何気ない口調で切り出した。でも、何気ない素振りをしているだけだということは、声を聞けばすぐにわかった。私は、イライラを隠すことなく、夫が続きを言う前に口を開いた。

「別にいいじゃない、気にしなくたって。まだ赤ちゃんなんだから、そのうち生えてくるよ」

「え?」

夫はテレビの画面から目を離し、きょとんとした顔で私を見つめる。

「それに、生えてこなくたって、別にいいじゃない。髪の毛なんてなくたって、あの子があの子であることに変わりはないじゃない。髪の毛なんて、どうだっていいじゃない」

私の勢いに圧倒されたのか、夫はしばらく黙ってから、「ちがうよ」と言い聞かせるようにして、私に言った。

「そっちじゃなくて、君のことだよ。すごい量、抜けてるでしょ?」

「え?」今度は私が驚く番だった。「知ってたの?」

「知ってるよ。排水溝掃除すると、毎日ゴルフボールみたいな塊が溜まってるから。気にするといけないと思って言わなかったけど、大丈夫なの?」

毎日掃除させてごめんなさいね。私はいたたまれない気持ちと苛立ちに目を閉じ、言い訳するように言う。

「大丈夫だよ。産後はホルモンとかの関係で髪の毛が抜けるんだって。だから、心配しなくてもそのうちおさまるよ」 

夫は「そうなんだ、よかった」と胸をなでおろした様子だった。その声に、一度飲み込んだ感情が再び喉元にせりあがる。

「そうだよね、よかったね。髪の毛目当てで、せっかっく髪のきれいな奥さんと結婚したのに、ハゲちゃったらがっかりだもんね」

「は?」

私の言葉に、夫は間抜けな声を出した。気持ちはわかる。「髪の毛目当て」だなんて、自分でも滑稽な言葉だってわかってる。だけど、気持ちのコントロールができない。いくら滑稽だってわかっていたって、たとえこの昂りが産後のホルモンの仕業だとしたって、ここにあるこの絶望的な気持ちは、本物だから仕方がない。

「何言ってんの」

そう言って、夫は手元のリモコンでテレビを消した。あふれていた音が消えると、ズルズルと私が鼻水をすする音が響く。手を伸ばしてテーブルの上のティッシュを取り、娘を起こさないように、私はそっと鼻をかみ、涙をぬぐう。

「ねえ、俺が言ってるのは髪の毛がどうのってことじゃなくて、ストレスとか体調とか、大丈夫かって言いたかったんだよ。髪の毛じゃなくて、君の心配をしてるの」

夫の言うことにピンとこなくて、私はティッシュをにぎったまま首をかしげた。

「あんなにたくさんの毛が抜けるなんて、普通おかしいでしょ。産後の抜け毛とか、知らなかったし。教えておいてくれればよかったのに」

自分でググればいいじゃん。そう思いもしたけれど、それは口にしないまま、私は「ごめん」と呟いた。

「確かに君の髪はきれいだけど、髪がきれいだからって結婚するわけないでしょう。君の髪の毛だから、好きだし、きれいだと思うんでしょ。髪の毛目当てって、何だそれ」

「ごめん」

再び謝る私の頭を、夫はため息をついた後に、優しく撫でた。娘の頭を撫でる時のように、うんと優しく。そして、「君だって、俺がハゲたってかまわないでしょ」とにっこりと言い、私が少し考えてから「うん、まあ」と答えると、「間があったね」と笑った。

めずらしく甘みを帯びた雰囲気に異変を感じたのか、隣の部屋から、寝ていた娘の泣き声が聞こえてきた。「起きちゃったみたいだね」と、そそくさと立ち上がる夫の後に続き、娘の元へ歩く。私が抱き上げると娘はすぐに泣き止み、夫はその娘を横から覗き込んで微笑む。

「髪の毛なんて、どうだっていいよ。大好きだよ」そう言って私が娘のおでこに唇をあてると、夫は「いや、この子が大好きだから、きれいな髪が生えてほしいんだよ」と言う。

そっちの理屈も、まあ、わからなくはないかと思いながら、「とにかく、私たちはあなたが大好きなんだよ」と私が言うと、娘は「知らないよ」とでも言いたげに、大きなあくびをひとつしてから、目を閉じた。

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