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記憶の記録 後編

何故こうして長々と書き記したかというと、記憶を記録しておきたかったから。

記憶とは面白いものだ。こんな大事なことをスッカリと忘れてしまうなんて先ずないけれど、細かな部分はどんどんと薄れて改竄されていく。
まるで海辺で拾うシーグラスみたいに。おおよその形はそのままあるのに、長い月日によって元の正確な形ではない別の美しい姿に変わってしまう。
別の美しい姿。そういう記憶になっても良いとは思う。でも、家族や身近な人達以外の人間は誰も知らないこの記憶が、正確な形として残せないのはとても淋しいことだな、と感じてしまうのでここに置いておこうと思ったのだ。

この記憶の記録は制作においても同じ気持ちで。
勿論、ちゃんとしたステートメントやテーマはあるのだけれど(とても大雑把に言うと色々な意味や形の"愛"、を描いている。)それよりももっともっと広い意味では記憶の記録をしているのだと思う。


私は学生時代、何故か写真を撮られるのが苦手だった。当時はプリクラ全盛期で女子たちは手帳を持ち歩き友人知人と交換するのがマストな遊びだったので、御多分に漏れず多少は私もしていた。
が、それは周りの人よりも断然少ない回数しかした事がないし、手帳も5ページも埋まらない。
プリクラですらそんな状態なので、普通に写真なんて撮っていた記憶すらない。(家庭行事・学校行事やアルバム用等を除いて。)

それからまぁ色々あって芸大を辞めてぼちぼちなバイトをしながら、まだ心身共に治りきっていない状態でふらふらと過ごしていた頃だったかな。ある日ふと「あ、死のう。」と思い、確定した死ぬ事よりも死んだ後のあれそれを考えていたんだよね。その時に、「あれ?今死んだら遺影の写真がなくない?高校のアルバム写真?いやそれよりも、今の私の姿って誰も知らないし覚えてくれないんじゃない?」って別の角度からの不安がどっと押し寄せた。

死ぬための準備として今の姿を残さなきゃ!
例え生き続けるにしても、今の私を知る人が10年後20年後まで傍に居続けるとは限らない。
誰の記憶にも残らないなんて、それって今の私は死んでいるのと一緒じゃない?
あの時こうだったんだよ…って思い出話しすら出来ないんじゃない?

この不安感と、今を、今の自分を残さなきゃいけないという強迫観念にも似た焦燥感から、まずはセルフポートレートの写真作品の制作から始まった。
作家活動とかそういうのはしていなくて、只々作品としての記録写真の制作。
でも一応作品として作っているからには、真面目に良いものを作り上げていたと思う。
思い返すと、それはもう凄い労力を使っていたし今では絶対に真似が出来ないな。ギリギリ合法(時々アウト)的に入れる場所で撮影ストーリーや衣装を考え、小道具と時間と移動に少ないお小遣いで何とか良いものを選び、版画科に居たので現像もプリントも少しは出来たので写真はちゃんとフィルムのアナログ一眼撮影。流石に大学を辞めた後だったので暗室など使えなかった為、現像だけカメラ屋に持って行き、データを貰うのではなく自宅のプリンターで現像されたフィルムを丁寧に読み込んで、全て手焼きプリント。
たった1枚の写真が仕上がるまでに、何週間もかけて作り上げていた。

そこまでして作り上げたのだから、やはり表に出してみたくなる。
写真でばかり出展していたら今度は絵が描きたくなってくる。
絵を描き始めたら一点物の良さを再確認し、写真そのものへの魅力が失われる。
そして自分が版画科だった事を思い出し、写真のプリントの仕方を変えて、今の写真を元にしたモノタイプ版画(一点物版画)の原型みたいなものを作り始めたのだ。

表に出す手段が何もわからずイベント系でそうこうしている内にギャラリーに辿り着き、何だかんだで今に至るのだけれど、広い広ーーい意味ではやはり「今の私を残さなければ。」という頭の片隅に薄っすら残る強迫観念が、今現在の全ての作品のステートメントでありテーマなのだろうな。
ただの私のアルバムのようなもの。そこに意味はあるけど意味はない。
作品の制作においてこんな中身のないような事を言ってはダメなのだろうけど、私にとってはこの記憶の記録が大事なのだ。
いや勿論、もっとちゃんとした別の意味も含めているけれど。

元々のきっかけがこうだから、今でも作品以外で写真を撮る習慣がほぼ全くない。こんなに忘れられたくなくて記録したがっているのにね。
だからトウコの写真も殆ど残っていない。もっともっと記録してあげれば良かった。その想いがあるからか、今飼っている猫のコスモは何でもない事でも沢山撮って記録している。いつかの思い出になるんだろうな…という、何とも縁起の悪い後ろ向き全力疾走な思考回路で。

あぁ、誰か撮っていて欲しい。誰かのカメラやアルバムや携帯の中に、私や私の周りが生きていたという証拠を残して欲しい。


余談だが、人が多い所で写真を撮ると見ず知らずの人が写ってしまうよね。
撮った側は大事な写真だからずっと持ち続けるだろうし、何度も見返すだろう。子供や孫やその家族の受け継がれる永遠の思い出として。
その知らない場所で何度も見て永遠に記憶される見ず知らずの人に、誰でもどこかで1枚は写真に残っている。その記憶される"見ず知らずの人"に浪漫を感じて、主人公ではなく積極的に誰かのモブとして写っていきたい。…とは、よく思う。

知らない誰かの思い出の中で生きる私。素敵じゃない?
だからこうしてたまには、記憶の記録もしておこう。

写真作品として制作したもの。
その後、モノタイプ版画作品として制作したもの。

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