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わたしの福祉 #3

 さよなら。
 息子の声をはっきりと聴いた彼女には、もう号泣するほかはなかった。彼女は確信していた。息子は自殺だったのだ。あの日、たったひとりの味方だと思っていたわたしに裏切られた息子は、走ってくる大型トラックの前に飛び出すという方法で、自ら死を選んだ。彼女には息子を裏切ったという気持ちはなかった。だが、やはりあれは裏切りだったのだと、号泣する中で、彼女は理解した。何よりの証拠は息子の自殺だった。わたしの心の中にあるほんとうの思いを息子は知ってしまったのだ。だから自死を選んだ。彼女の中で、それは確信となった。複雑な考察を差しはさむこともなく、息子は自殺だと考えた彼女にとってそれ以外の真実はもはや存在しなかった。だから、息子を殺したのはわたしだ。息子が言ったさよならは、彼女に彼女自身の罪を突きつけてきた。彼女には号泣する以外、なす術がなかった。新幹線の中で人目もはばからず号泣し続ける彼女の姿は異様だった。声をかけてきた乗客もいたが、彼女は答えず、答えられず、泣き続けた。連絡を受けた車掌がやってきて声をかけた。しかし、彼女は泣き続けた。すると、ひとりの上品な感じのする初老の男性がやってきて、私は医者ですが、何かお手伝いできることがあればと、控えめに申し出てくれた。そして名刺を見せて、確かに自分が医者であることを車掌に示した。そのとき彼女は窓際の席に座っていた。通路側の席には、まだ客がいなかった。車掌は医師に、お願いしますといって、初老の医師に対応を任せた。彼女は幸運だった。息子を殺したのは自分だという絶望的な悲しみの中で泣き叫んでいたが、同じ車両には医師、それも精神科の医師が乗っていたのである。医師は彼女の隣に座った。最初、医師は何もせず、何も言わず、泣き叫ぶ彼女を穏やかに見つめていた。泣き続けることも疲れる。彼女の心は、いくらでも泣き続けることができたが、肉体が疲れてきたとき、彼女の号泣は少しおさまった。そのとき、初老の医師が静かに話しかけてきた。何を言ったのか、はっきりと覚えていない。だが、その声は、心地良く、聞いていると嵐のように荒れ狂っていた感情が静まっていくように感じられた。意識していたわけではなかったが、気がつくと、深海の底にいるような絶望的な悲しみの水圧に押しつぶされていた彼女の心が、ほんのわずかだが軽くなった。つらいことがあったんですねと、初老の医師は穏やかな声で言ったような気がする。息子を殺しました。彼女は言った。これも、確かにそうだというのではなく、言ったような気がするということだった。実際は何といったのか、彼女にもわからなかった。穏やかな医師の声と、涙に溺れた自分の声。彼女は言葉のやり取りの中で少しずつ、穏やかさを取り戻していった。時が過ぎた。医師がしたことは、穏やかに彼女の話を聞くことだけだったように思う。鎮静剤を投与されたわけでもなかったが、医師の示した傾聴の姿勢、多分あれを傾聴というのだ、それが彼女から号泣を取り除いた。悲しみは消えなかったが、それでも号泣することはなくなっていた。いつのまにか、彼女は眠っていた。
 あの日の出来事はすべて夢のようだった。M県につくまでの数時間、彼女は号泣して、偶然乗り合わせた医師に話しを聞いてもらい、そして眠った。どれほどか眠り、目を覚ましたとき、医師の姿は消えていた。それから、またうとうととした。気がつくと、隣に人がいた。今度は婦人だった。年齢は七十代、あるいはもう少し上だろうか。彼女が目覚めたことに気づくと、婦人は穏やかな微笑をくれた。そのとき彼女は、泣いている自分を恥ずかしいと思った。眠り、少し落ち着きを取り戻していた。慌てて涙を拭いた。それから車窓に顔を向けた。泣きはらした顔を見られたくなかった。四十女が泣いている姿なんて、みっともない以外のなにものでもない。そういう気分、つまり羞恥を感じる程度に、彼女は落ち着きを取り戻していた。
 彼女は外の景色を見ていた。M県には慈光会の面接で行った。彼女のうまれた町よりも、はるかに南にあるM県は、故郷とはずいぶん景色が違った。北の土地の、荒々しさがなく、穏やかな風景が広がっていた。わたしは本当にM県に行くのだろうかと考えた。ほんとうは、死に場所を探しているのではないかと彼女は思った。死に場所を探す、そう考えることはとても自然なことのように思えた。そのとき、彼女の心は確かに死に向かって進んでいた。
「泣いておられますね」
 穏やかな声が耳に届き、彼女ははっとしたように婦人を見た。どうこたえていいのかわからず、戸惑いながら婦人を見つめた。
「不躾でしたね、ごめんなさい」
 穏やかに婦人は言って、それでも笑みを絶やさず、
「泣けるときは泣いたほうがいいですね。わたしにもそういうときがありました。人はいつでも泣けるわけではありませんから」
 この人はどうしてそんなことをいうのだろうと思った。初対面のわたしになぜこんな風に話しかけてくるのだろう。そんなことを考えつつも、気がつくと彼女は、
「五年間泣けませんでした。息子を亡くしたのに、少しも悲しくなくて、なぜかずっと泣けないままできました。それがここにきて急に、ほんとうに突然、悲しみがやってきて、もう我慢することができませんでした」
 婦人は穏やかな笑みを表情のどこかに留めたまま、
「世の中には変えられないことがあります。人の力で変えられないことに出会ったときは、泣いて、泣いて、泣き続けましょう。これから先も、きっとあなたは亡くした息子さんのことを思い出し、悲しみの涙にくれると思います。それはそれで受け入れましょうね」
 婦人は詳しい事情を訊ねようとしなかった。考えてみれば、確かに不躾な話だった。見も知らず、事情も知らない相手に向かって、悲しみは悲しみとして受けいれるしかないと、わかったようなことを言われているのだ。そんな説教をあなたにされるいわれはない。そう言い返してもよかったのだ。もちろん、そんな気は彼女になかった。彼女の心は、むしろその逆、婦人の言葉の暖かさに包み込まれていた。胸の中には、消しようもない悲しみがあるにもかかわらず、婦人の言葉に、心がさらに軽くなっていくような気さえしていた。気がつくと婦人の顔、その表情の中から、かすかにあったと思われた笑みは消えていた。婦人の表情には、侵しがたい威厳さえ感じられた。しかし、その威厳は、何といえばいいのか、相手に対する労りや、思いやりが決定的に欠如した、威厳ではなかった。それは、揺らぐことのない優しさであるように感じられた。婦人は、穏やかだが、侵しがたい威厳と、決して崩れることのない優しさを込めて、
「ひとつ、わたしと約束してくれませんか」
 と、言った。その声も表情と同じで、やさしく、それでいて心にずしりとくる重みがあった。
「なんでしょう」
「決して立ち止まらないでください。悔いは心に刻みつけて、泣きたいときは泣き、でも立ち止まることも、道から外れることもなく、歩き続けていただけますか」
 婦人の言葉を聞きながら彼女は、自分が死に場所を探しているのだと思ったことを、見抜かれていたのではないかと思った。婦人は、まるでわたしに生きろと言っているように思えた。何があっても生きろと。
「努力してみます」
 彼女に言える、それが精いっぱいの言葉だった。それでも婦人は、満足したように穏やかに頷いてくれた。彼女は婦人の顔に微笑が戻るのを見た。そして、彼女はふたたび眠りに落ちた。
 後になって考えてみると、ほんとうにあれは夢のような出来事だったと思うことがあった。目を覚ましたとき、婦人の姿は消えていた。しかし、婦人が座っていたシートに、キーホルダーが置かれていた。それは金属製で、翼のキーホルダーだった。彼女はそれを手に取った。意外に重かった。どういった金属でできているのか、わからなかったが、銀色で長年使い込んだもののように黒ずみがあった。黒ずみは、確かに汚れではあるのだろうが、不快な感じはなかった。むしろそれ自体の歴史を感じさせた。そんな証拠はどこにもなかったのだが、キーホルダーは、あの婦人が、わたしのために残していってくれたもの。彼女にはそう思えた。彼女はそれを自分の鞄にそっと入れた。翼は天使の翼だと思った。
 ほんとうにすべては夢のようだった。
 慈光会で、彼女は入所施設の担当になった。その施設は二階建てで、六十名の障害者が生活していた。彼女は二階の担当になった。その施設の一階は強度行動障害のある障害者が入所しており、担当するのは男性職員が多かった。二階は軽度知的障害者や高齢の障害者が多く、担当は女性職員が多かった。
 中軽度の知的障害者の中には、一見、知的障害であるということがわからない者もいた。実際、地域で生活していた者もいた。地域で問題を何度か起こし、入所したという障害者もいた。強度行動障害の支援は難しい。それは当然なのだが、ある部分、それ以上に難しいのが中軽度の障害者だった。彼女の息子がまさにそれであり、その難しさはしっかりと理解していた。地域で暮らすことができるということは、それだけの生活スキルを持っているということだった。中軽度の知的障害者は、知的障害はあっても、地域生活が可能であるだけの、能力を持っていた。その一方で、彼らには自己抑制力の低さがあった。つまり、自分の衝動や欲求のコントロールに困難を抱えている人が多い。全員そうだと言っているわけではもちろんない。個人差はある。それに知的障害のあるなしに関わらず、そういった人間は健常者、彼女はこの言い方が嫌いだが、とにかく健常者のなかにも、自己コントロールのできない者はいくらでもいる。そういったことは、育成環境等にも大きく影響されることだった。それは健常者、障害者を問わない。
 中軽度の知的障害がある障害者の場合、犯罪に巻き込まれやすいという現実があった。知的障害があり育成環境が劣悪な場合、差別を受け孤立しやすい。そこを狙って犯罪者が接近してくる場合がある。中軽度の知的障害者が、反社会的勢力や犯罪の片棒を担がされたりするケースはいくらでもある。勘違いされては困るのだが、だから知的障害者の多くが犯罪とかかわりを持つなどということはない。あくまでも一部であり、全体としてみれば、知的障害者が犯罪に関与するケースは一般人と比べて低い。しかし、現実にそういったケースがあり、中軽度の知的障害者を守るためにも、支援や教育が必要だということだった。
 彼女は世の中が理想とは程遠い状況にあることも知っていた。彼女の息子は学校にも行くことができず、ふたりで、公園で時間を過ごしていたのだ。世間は弱者に優しくないことを彼女は知っていた。
 二階の支援に入るようになって間もない頃だった。彼女は入居者の歌を聞いた。その歌は、兄が持ってきた白い粉、つまり麻薬だが、それを麻薬と知らずに妹が遊んでしまい、警察に見られ、兄が逮捕され、自分も逮捕される少年のことを歌っていた。乾いた、それでいて救いのない、壊れてしまった家族のことを歌っていた。

 歌っていたのは、四十代のNという入居者だった。施設に入居して、四年目だという。身長は百七十センチあるかなし、痩せて目がぎょろりとした彼は、一目見て恵まれない家庭環境で育ったということがわかるタイプだった。コの字型をした施設の中庭に面したベランダにおいてある椅子に座って、彼は歌っていた。彼女はその歌を知らなかったが、印象に残る歌詞とメロディーだった。他の職員にあの歌について知っているかと訊ねたが、
「知らない」
 と、いう返事だった。
「あの歌に興味があるんですか?」
「うん、まあ」
 彼女は曖昧に答えた。
「Nさんには近づかない方がいいですよ」
「そうなんですか」
「Nさんはまえに刑務所に入っていたらしいです」
「ほんとですか」
 触法障害者のことは彼女も聞いたことがあった。息子がそうならないかと、心配したこともあった。Nが触法障害者だと聞かされて、納得した感じがあった。
「はっきりとは知りませんけど、そういう噂です」
「そういうことって、職員には知らされないんですか。大切なことだと思うんですけれど」
「回ってこないですね、そういう情報」
 まだ若い女性職員は不満そうな顔をして、
「所長の方針らしいですよ。へんな先入観で入居者を見てもらいたくないんだって。でも、情報は大切ですよね。その人を知らないと。どんなリスクがあるのかも、職員としては知りたいですよね」
 彼女は山川という暑苦しい感じの所長を思い浮かべた。汗の匂いが漂ってきそうな中年男で、いつも唾を飛ばすような勢いで、法人理念と福祉への愛を語っていた。山川によれば、福祉職員はすべからく命に寄り添う仕事なのだそうだ。初めて、山川の福祉への情熱を聞かされたとき、彼女は気持ちがどうしようもなく冷めていくのを感じた。障害福祉の現場に対して、彼女は多くを期待していなかった。過去の経験から、そこにあるのは、虐待そのものか、虐待に踏み込む一歩手前の権利侵害だ。人が人の権利を、特に弱者の権利を守るというのはよほどのことで、そんなに美しいことはめったにないことを、彼女は骨髄に染み込むほどに知っていた。
 女性職員の言うことはもっともだった。支援において相手をよく知ることは、基本中の基本だ。変な先入観を持たせないためにも、入居者のことはよく知るべきなのだ。それがないから、たとえばNに対して、刑務所に入っていたことがあるらしいという、真偽不明の噂が流れる。真偽不明と書いたが、彼女の印象では、Nの過去にはそういった暗いものがあるように感じられた。
 その日も、Nはあの歌を歌っていた。歌っている場所は同じだった。中庭を見下ろすベランダの角に置かれたベンチに、ひとりで座ってNは物悲しいその歌を歌う。煙草でも吸っていれば、絵になっただろう。だが、施設は禁煙だった。Nは喫煙者だったが、施設に入って煙草を無理やりやめさせられたのだった。以前は、よく職員に煙草をねだることがあったらしいが、そのたびに、所長の山川に、こっぴどく叱られていたらしい。
 彼女は自分からNに近づいて行って声をかけた。
「その歌」
 声をかけると、Nはさっと振り向いた。その様子は、まるで何かに怯えているように見えた。声をかけてきたのが、彼女だとわかるとNはちょっとほっとしたような顔を見せ、
「この歌がどうかした」
 と、言った。言ったとき、Nは中庭に視線を戻していた。
「誰の歌なんですか」
「知らない。親父がよくうたってた」
「お父さんが?」
「親父なら知ってるのかもしれないけどな、おれは知らない」
「好きなんですか、その歌」
「さあ、よくわからんな。親父がいつも歌っていたから、知らないうちに覚えたんだ」
 それから、Nは彼女に顔を向け、
「ガキの頃、公園に行ってよくこの歌を歌ってくれた。Y公園を知ってるか」
「知りません。この土地の人間じゃないんです」
「そうなのか」
 Nは興味深そうに彼女を見つめ、
「どこから来たんだ」
「遠いところ」
 彼女はNの視線のなかに性的なものがあるのを感じつつ、それでも微笑を浮かべ、
「北の方ですよ」
「北か」
 Nは遠い場所を見つめるような目をして言った。詳しく訊かれても、彼女はそれ以上答える気はなかった。Nも、それ以上は聞いてこなかった。しばらくして、
「最後の日だったな、親父は公園で待ってろといって、そのままどこかにいった」
 Nはふと言葉を切って、そのまま無表情に彼女を見つめ、
「おれは公園のベンチで、さっきの歌を歌いながら、ずっと待ってた。夜になっても、おれはベンチを離れなかったが、結局、親父とはそれっきりだ」
 彼女はNの話を聞きながら、息子のことを思い出していた。息子は不幸だと思ったことがあった。しかしNに比べれば、そういう比べ方は正しくないことかもしれないが、それでも比べてみれば息子は幸せだったのだと思った。Nの母親はどうしていたのだろう。知りたいという気持ちはあったが、母親のことは聞かなかった。かわりに、
「それからどうしたの」
「それから?」
 Nは質問の意味が分からない様子だった。
「お父さんがいなくなってから、どうしたの?」
「ああ、そういうことか。姉貴と暮らしたよ」
「お姉さんはいくつだった?」
「あの頃、おれよりも四つ上だったから十五歳かな。そんなもんだったと思う」
「二人で暮らしたの?」
「ふたりで暮らした」
「学校は」
「行ってない。おれ、学校に行ってないよ。親父が行かなくてもいいっていったから」
 Nはそれが異常なことだとは考えていないようだった。彼女はNの話をさらに聞こうとした。Nの人生について聞きたいと思った。その時だった。突然、ベランダに出る掃き出し窓が開き、所長の山川が現れた。
「話がある」
 と、言ってNをなかに入れた。なかは広い廊下だった。山川所長はNに対して、
「お前、この前の夜勤のときに、職員を殴ったのか」
 と、威圧的な口調で言った。山川は声が大きく、身長はさほど高くないが、がっちりとした体つきをしていた。腕が太く、昔、スポーツか、格闘技をやっていたのだろうと彼女は考えていた。たぶん、格闘技だ。がに股だから柔道だろう。
 Nは口ごもった。その後ろに男性職員が二人立っていた、
「答えろ」
「あれはさあ、あいつが馬鹿なことをするから」
「馬鹿とはなんだ」
 山川はNを一喝した。Nの体がびくっと震えた。Nは山川を恐れていた。山川はそれを知っていて、Nに威圧的な態度をとっているのだ。
「あいつが、決められたことと違うことをしていたから、注意しただけだ」
「そのとき、顔を殴っただろう」
「そりゃ」
「そりゃ、なんだ」
「あいつが口答えをしたから」
「お前、何様のつもりだ。吉田は職員だぞ」
「職員だから間違ったことをしてもいいのかよ」
「その間違いでお前が迷惑をしたか」
「迷惑はしていないけど」
「だったら黙ってろ。お前、前にも同じことをしたな。その前は女性職員の尻に触った」
 言った後で、山川はちらっと彼女を見たが、すぐにNに目を戻し、
「今度やったら許さんと言ったな。覚えてるか」
「なんでだよ」
 一方的に怒鳴りつけられ、我慢できなくなったのだろう。Nが怒鳴り返した。
「あいつはいい加減なことをしたんだ。それを注意して何が悪い」
「黙れ! 何があっても、人を殴ってそれで済むと思っているのか。お前、次はないと言ったおれの言葉を忘れたのか」
 Nの顔に怯えと怒りの色が同時に浮かんだ。突然、Nは叫んだ。そして、山川に殴りかかった。山川は簡単に振り上げた腕をとった。そのまま後ろに向けて押した。倒れると彼女は思った。しかし、背後にいた二名の職員がNの体を受け止めた。そして、がっちりと腕を掴み、そのまま床に座らせた。Nはなおも体をねじり、足をばたつかせ、ふたりの職員から逃れようとした。勢いはあっても非力なNに逃れることはできなかった。Nは山川を蹴ろうとしていたのかもしれないが、両腕を抑え込まれているNはただ足をばたつかせるだけだった。
「いいか、今度やったら許さんとおれは言ったな。警察に連絡することもいれてお前のことをどうするか話し合う」
 Nの動きがとまった。はっとしたような顔になり、そして怯える顔になった。
「警察って」
 Nの声は急に勢いをなくした。
「当たり前だ。人を殴ったからには、警察に連絡をする」
「それは」
 Nはいまや完全に怯えていた。Nがかつて刑務所にいたということは事実だと、そのとき彼女は思った。
「お前には前科がある。意味が分かるな」
「待ってくれって」
「いやだめだ」
「また刑務所に行くのはいやだ」
「知るか。自業自得だ」
「あそこにいったらひどい目にあう」
「そうだろうな。お前のような奴はひどい目にあう。あそこにいる連中は、ここにいるみんなほど優しくはないからな。だが、それも仕方がない」
 Nは完全に暴れるのをやめていた。山川が目配せをすると、Nを抑えていた職員が手を離した。Nは足を投げ出したまま座り、動こうとしなかった。
「覚えておけよ。お前はな、ここでしか生きられないんだ。だが、ここでも問題を起こすなら、出て行ってもらう。出て行けば、お前はひとりだ。生きて行けるか。刑務所でもどこにでも行くがいい。いじめられても飯だけは食わせてもらえるからな」
 山川は彼女をちらっと見て、
「行きなさい」
 と、言った。彼女はその言葉に従った。胸の中に。氷の塊ができたような気分だった。体温が急速に下がったようだった。
 そのことがあって二日後、Nは施設を逃げ出した。


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