3mmのガラスの板が結ぶ像 わたしのせかいはぜんぶにせもの


めがねを外して見た景色 第1回

かるがも団地のめがね担当 日野林が送る
短歌とエッセイの連載です。


せっかくの初回なので、
「めがねを外して見た景色」というタイトルと
つながりのあるお話をしようと思います。

あ、はじめまして。日野林琴乃と申します。
かるがも団地という集団のメンバーです。
この連載では、わたしが短歌を作ったり、好きな短歌を紹介したりしながら、
その短歌に関係あったりなかったりすることを書いていこうと思います。

3mmのガラスの板が結ぶ像 わたしのせかいはぜんぶにせもの

わたしは小学校5年生からめがねをかけています。
最初は授業中だけ、徐々に日々の生活でもかけるようになって、
気づいたら視力は0.03程度まで落ち、めがねが手放せなくなりました。
遂にはめがねがないと顔が完成しないくらいまで、
眼鏡とわたしはセットになってしまったのです。

初めてめがねをかけたとき、
めがねの度を強くしたとき、
ドキドキときめいたのを覚えています。
世界は本当はこんなに線がいっぱいあって、境界が鮮明でなのかと、
わたしが今まで見ていた世界は何と曖昧で、ぼやけていたのかと、不思議な気持ち。

そこにあるものは変わっていなくて、
変わったのはわたしのめがねなのに、
全く新しい世界を生きているような、生まれなおしたような感覚。

たまにふと、
わたしはいつも見ているのは、この厚さ数ミリのレンズによって結ばれなおした像なんだ、ということを思い出します。
中学校の理科の授業でレンズと光の焦点のことを習ったとき、愕然としました。
じゃあわたしが見ている世界って、本物じゃないじゃんって、なんだかすごく興ざめしたのでした。

その数年後、そもそもヒトは水晶体によって像を結び脳に送られていることを知ることになるのですが、
少なくとも、めがねの人は裸眼の人よりも世界への隔たりが一つ多い。
めがねをかけて見える景色が「本物」と同じなのか、確かめようにも
めがねを外したらわたしの視界はぼやけて、なんとなくの色の塊がみえるだけです。

でも、めがねとか視力のことに限らず、
だれもが自分のレンズをとおして世界を見ている、と、思います。
自分の心にレンズやフレームがあって、
それを通して結びなおされた世界を見ている。

そこにあるものを解釈して、自分なりに理解するっていうことを
無意識にできるのはとてもすごいことで、
これが上手な人はすごく楽しく生きられるんだろうと思います。

でも、
たまに、自分のレンズがあまりに分厚かったり、
余りに汚れていたりすることに気付いてぞっとします。

美人「だけど」さばさばしているね
男「なのに」甘いものが好きなんだね
女の子なの「だから」おとなしくしていなさい

無意識に、わたしは自分のレンズであなたを歪め、
わたしは誰かのレンズによって歪められている。かすんでいる。

わたしが見ているあなたと
そこにいるあなた、
全く同じじゃあつまらないけど、
あまりにちがったらそれは残酷なことで、
あなたや誰かを傷つけてしまうかもしれない。

だから、わたしはいろんな本を読んで、
いろんな話をきいて、いろんなものを見て、
そしてたまにこうやって文章を書いて、
自分のレンズが曇っていないか、点検しなくてはなりません。
これ以上レンズが分厚くならないように、心の目を労ってあげなきゃいけません。

わたしはめがねっ子「だから」、こういうことを真面目に考えてしまいます。
あ、これも、わたしのレンズを通したことばですね。

#エッセイ #短歌 #日記 #コラム #めがね

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めがねを外して見た景色(短歌+エッセイ)

かるがも団地のめがね担当 日野林が 日々ぐるぐると考えたことを短歌(初挑戦)とエッセイで綴ります。
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