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循環

7月のある日、一度も話したことのない人のお葬式に参列した。
話したこともない人を見送っている不思議。故人と共有した思い出もない。

いつか私のお葬式にも、話したことないがない人が来ることはあるかしら?

有名人の訃報を知るとき、親より年下の方だとドキリとする。もちろん、早すぎる死だなと残念に思うし、親が尚も健在なのは幸運でもあることだと思い知る。

自分とたいして歳が変わらない人や、年下の人の訃報を聞くことも増えてきた。

ああ、これから見送るばかりになるのだな。
冠婚葬祭といっても、もう結婚式に出席する機会も多くはないだろう。
その分、というわけでもないけれど、葬式に出席する機会が増えていくはず。

持病を発症してから、私にとっても死がぐっと身近になった。
病気によって死と直面しているわけではないけれど、死を考える機会が増えた。
頭ではわかっていたけれど、いざ入院と言う事態になってみて、どうして自分だけは病気にならないと信じていられたのだろうか、と実感として、当たり前が当たり前でないことを知った。
私はずっと夢を見ていたのかもしれない。

人生には限りがある、と理解した今もなお、心で覚悟が出来ていない。
自分は、人生の後半に足を踏み入れているというのに。
見送るばかりの日々に耐えられるのだろうか。

故人を見送りながら、姉のお腹に宿る命を思った。これから生まれてくる命を待つ時間を持てるなんて、温かいし、力強い。

私は、義理の祖母とは意思疎通を図ったことはない。
夫と付き合い始めた頃には、もう、意識がはっきりしない状態の寝たきりだった。

それでも、彼女の人生の終わりに、見送る側の人間として、私も参列している。親戚ってなんだろう、面倒だな、なんて、思ったこともあるけれど、血の繋がりを介して出来た、血の繋がりもない人間も交えた集団。まさしく縁なんだ。
大切な人の大切な人。

生と死の循環。
見送って迎えて。

命を見送る場面では、なるべく丁寧に見送りたいものだと思った。

私達に子供はいない。
いつか私の命は、誰に見送られるのだろうか。
そこに夫がいて欲しい気もするし、いて欲しくない気もする。
私が死んだら、誰かあの人にリンゴの皮をむいて食べさせてくれるかな。
あの人がいなくなった世界で、私はどこで安心すればいいのだろうか。

姉にかりた喪服を着て、姉のお腹の中にいる命を感じながら、思う。

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