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犬になりたい 松浦理英子『犬身』

 犬は良いものだ。私は、哺乳類はだいたい好ましく思い、ヒト以外なら寄っていってさわる(ヒトにもたまにさわる)が、犬は別格だ。そこいらの犬を撫でるたびに思う。犬は素晴らしい。好きだ。犬のほうもたいてい私を好いてくれる。相思相愛である。

 言語は不自由だ。言語は面倒だ。言語は不確かだ。寄っていってさわれば済むことを延々と遠回りして伝えなければならない。もちろん私は言語に救われ、守られている。寄られたくない、さわられたくない相手のほうがずっと多い。けれども、愛においてほんとうに言語は無力である。

 だからといって、愛の対象と接触に関する合意を形成すればめでたしめでたしかといえば、そんなことはない。愛と接触はすぐセックスに結びつけられてしまう。セックスは重要だけど、愛のほんの一部しかカバーしない。なんなら暴力にも簡単に接続する。接触イコールセックスみたいな人を見ると絶望する。まじかよと思う。人間には性欲と同時にも別々にも発動する「皮膚接触欲」があると信じている。

 それなら犬になってしまえ、というのが本書の内容である。主人公は言葉を捨て、人間の身体を捨て、犬として愛する人のもとへ行く。さんざっぱら言語は無力だと言ったあとでなんだが、すごい選択だ。だってさー、やっぱ、おはなしとかセックスとかしたいじゃん、好きな人と。

 主人公はそんなものより犬の身となって愛する人と暮らすことを選ぶ(犬になるという選択肢があるのはもちろん小説だからです)。いわく、性同一性障害ならぬ種同一性障害。作者の松浦理英子は長らく性・性器と愛の結びつきのステレオタイプに異を唱えてきたが、本作でとうとう種を超えた。

 犬となった主人公と飼い主となった愛する人とのあいだにはクリティカルな問題が起きない。問題は飼い主の原家族、すなわち兄と母にある。こいつらがほんとうにろくでもない連中で、読んでるあいだ中、キーッてなる。私なら十代のうちに相手を殺すか自分が家出する。でも主人公の飼い主はそうしない。人間が人間に暴力を振るわれ続けたときの選択肢は殺すか姿をくらますかしかないという考えに異を唱えるように。キーッてなる。

 ドロドロの家族関係はもちろん犬の愛について描くための装置だ。犬は無力だ。犬は言語を持たない。犬は財力や社会的地位を持たない。それらを用いて愛する人を助けることができない。助けることができないなら、愛しても無駄なのか。力がなければ愛に意味はないのか。その回答は、最終章で示される。

 犬は良いものだ。とても良いものである。

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