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私たちには味方がいる、私たちは捨て身の野良犬としての噛みつき方ばかりを使用するべきではないのかもしれない、しかし私たちは噛まれたときにただ黙っているだけでいてはいけない、今も、この今も 『早稲田文学女性号』

 本書はひとつの事件である。何度も目撃し、それぞれに味わい、取って置いて十年後にまた遭うこともできる、事件である。2017年に「女性号」と銘打った文学誌を出すのだから、巻頭言で女性というカテゴリ自体に疑義が呈されている。もちろん。カテゴリへの疑義、固定化への懸念、同時に「それでも私たちはものを書くにあたって女性という名付けから自由ではない」という感覚。川上未映子という人はすぐれた小説家であるだけではないのだ、と私は思う。あれこれに目配りして大量の作品を編集する「大人の仕事」をやってのける人でもあるのだ、と思う。その成熟に、巻頭言の段階で少し泣きそうになる。責任編集というのはもっとずっと年をとってからするものだろうと思う。快楽のためだけに仕事をすることをきっとやめた人が作った、そういう本なのだ。

 ああ、私たちは、本来性別など関係のない場面でいちいち「女の」と接頭辞をつけられる私たちは、そのような社会全体を変えるにはどうしたらよいのか、せめて自分の生活圏だけでも息をしやすいようにするにはどうしたらいいのかと、三十代のはじめから、思い詰めていたのではなかったか。中年のとば口の段階で社会を変えなければ生きていられないと感じ、みずからに成熟を強いたのではなかったか。それは私たちが「女の○○」と呼ばれる立場であったからではなかったか。女の作家、女の医者、女の弁護士、女の教師、女のエンジニア、女の部長、責任者を呼んで来いと言われて出て行っておまえじゃねえんだよちゃんとしたのよこせっつってんだろと罵声と唾液の粒を顔にかぶせれられ場合によってはペットボトルの中身を浴びせられもっと悪い場合には手足をシュッシュッと格闘技のポーズにキメて「これを冗談の範囲にしている自分は紳士だ」と思い込んでいる頭の中身の整備に巨大なセキュリティホールがおありになるようであると推察される、男の、来客。私たちはそれらをさばいて日常業務を取り戻さなければならない。女の部長、女の社長、女のスペシャリスト、女の責任者、「女の長」。女の、女の、女の、女の。女ですみませんねえとはわたしはぜったいに言わない。言うわけがないだろう。すまながられたいのはそいつらの欲望で、その欲望は不当で、わたしはぜったいにケアしない。殺されそうになったらやるフリだけして証拠をぜんぶスマートフォンで録画してあとで訴える。それは私の仕事ではない。女でごめんなさいと言うのは私の仕事ではない。でもしかたない。身を守るためにやる。私はただ私の仕事をしていて、男でないとういうだけのことである。それに異論のある者は書面を揃えて私の所属に訴追しろ。「女だ」と。それで契約書だか法律だかに不備があったら謝りますよ、女でごめんなさいってな。

 私たちはどうして、男の相手をしうる「女」か特定の男に属する「妻」か特定の男の子を産んだ「母」のいずれかでなければいけないような言語表現に取り巻かれているのか。私たちはそのことに、いつでも異議をとなえたかった。そのような者たちが真っ先に、この本を買う。

 冒頭に収録されたルシア・ベルリンが強烈な一撃を食らわせる。私は海外文学を好きで、この作品を訳した岸本佐知子の訳書のすべてを読んでいるけれども、そんな属性はこの作品を読むのにまったく必要ない。生活をしたことのある者、這いつくばって仕事をしたことのある者、そうして死を夢想したことのある者なら、誰が読んでもがつんとくる。暗くはない。軽妙でさえある。生きることには必ずそれぞれのリズムが付随する。文学の主要な機能のひとつはそのリズムを写し取ることだ。

 散文や断章は意識してか自然にか、呼び名や人称にかかわるものが多い。それがまっさきに「女」を規定するものだからだろう。私たちは立ち止まる。私たちは自分の一人称、自分に向けられる二人称、そして三人称について考える。子を持つことや持たないことについてもよく書かれている。これもまた「女」を規定する話題である。そのあたりは予想がつくのだけれども、私がこのとのほかぐっときたのは、お金にまつわる作品たちだった。

 そう、私たちは平均すると男たちの半分しか稼ぐことができない。「女向け」の仕事は給与が低く、「女向け」でない専門職に就いた場合でも女性の平均年収は男性より少なくとも百万円は低い。すべての職位においてだ。それでも私たちは稼ぎ、私たちは「自分で自分の表札をかける」。すぐれた芸術家が月10万円も稼げないと暴露し、表彰台で受け取ったトロフィーをその場で売り飛ばすイ・ランの作品が圧巻である。彼女にはおそろしく汚い語が浴びせられるが、残念ながら私たちにはさほどショックではない。文化は異なっても、表現する女への憎しみは少しインターネットを使っているだけで日常的に投げつけられるものだからだ。

 ひとつひとつの収録作に唸りながら読み進め、責任編集・川上未映子の慧眼にあらためて感服する。小説家の名の並びなど見ているだけで笑顔になってしまう。散文・散文詩・短歌も、薄いファンである私にさえすぐにわかる力量を有し、また知っている書き手が幾人も含まれている。私は俳句と評論と写真をやらないのでわからないのだけれども(文学の消費は「読む」というより「やる」という語がしっくりくる。小説はかなりやります、散文もけっこうやります、短歌は少しやります、というぐあいである)、私のやらない領域についても愛好家が見れば納得のラインナップであるにちがいない。

 文学というものをこれだけ網羅していると、たいていの読者にとって、ふだん読まない領域も多く含まれることだろう。私にとっては半分くらい縁のない領域の作品だった。それでも全体を楽しく読めるのは「女性と書くこと」というテーマの(それを排除しない男性と女性たちにとっての)普遍性、それから、同時代性を強く打ち出しているためでもあると思われる。普遍性と同時代性が矛盾なく両立するものだと、私ははじめて知った。本書は2017年に出版された意味を強く持ち、同時に、この先長く参照されうる、そういう存在である。目撃は遅くなってもかまわない、けれどもできることなら、今このとき、手にとってもらいたいと思う。本書は事件、私たちのたましいを揺さぶる、みごとな事件である。

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