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語りによって構築される閉じられた王国 松浦理英子『最愛の子ども』

 本書は閉じられた王国の物語である。
 私たちはその王国を直接目撃することができない。私たちが読むのは国民がささやくロイヤルファミリーのゴシップと、その周辺の人々に関する描写にすぎない。それでも、私たちはこの王国を知っている。役割は無力な子どもでありながら内実は大人に近く、感受性を持て余す少女であった記憶を残した、私たちは。

「王国」は今より少し前の日本の高校の片隅に人工的に作られ、その「国民」以外に存在を知る者はない。思春期の少女たちはしばしばそのような閉じた国を作る。この国の領土は土地ではなく、物語である。彼女たちは大人たちと男たちを排除した語りを繰りかえす。ロイヤルファミリーはいずれも高校生の女の子三人で、「パパ」「ママ」「王子」という役割を持ち、「家族」を構成する。パパもママも子も社会に規定された役割の名でありながら、少女たちの許せない性質が除かれ、少女たちが愛玩できるステレオタイプが残されている。だから子どもは女性の「王子」なのだ。

 クラスメイトたちはパパとママと王子に関する噂話をする。物語ることで場をつくるのが少女たちであるから、噂話はそのまま、王国を構成するための活動の描写でもある。すなわち、この小説は三重の円構造をもつ。もっとも内側の円はパパとママと王子。これは王国の神話であるから、小説の中で決して一人称を与えられない。ロイヤルファミリーは本心や真実を語らない。それは推測されなければならない。推測する国民たち、すなわちクラスメイトたちが第二の円、王国の境界線をつくる円である。クラスメイトたちは伝聞、憶測、妄想を交換し、それらがいきすぎないよう集団的に制御し、ストーリーをつくる。彼女たちは第一層(パパ・ママ・王子)を注視する脇役であり、さらにその外側の第三層(保護者や男子生徒、さらには読者)から見れば王国を構成する主体でもある。国民主権。その他大勢による世界の構築。なんという小説か。

 しかし、本書においてそのような技巧は主役ではない。筆者はきわめて技巧的な小説家ではあるが、技巧をめあてに小説を読む者はきっと後悔する。狼狽するほどの感情、ほとんど不快なまでの強い感覚がすべての読者を襲う、そういう小説でもあるからだ。

 十代の少女たちはなぜ王国を作るのか。おそらくは許せないものを排除し彼女たちにとっての正しい世界を確保するためである。読者である私たちは大人で、かつて許せなかったものを保身のために見過ごすすべを身につけている。だからそれを見過ごせない高校生たちのふるまいに狼狽する。彼女たちがいくら楽しそうでも、そのあまりの鮮烈さ、現在の自分とのあまりの距離に、なんだか泣けてしまう。彼女たちは大人なるものと男なるものの暴力性を排している。しかし、彼女たちには彼女たちの暴力性がある。男性性に回収されることのない暴力性が。

 彼女たちはなぜ暴力的であるか。それは愛を肯定しているからだ、と断定したい。私は常々思うのだけれども、力の不均衡が完全に均されたら、愛は存在しえない。特定の子に対し特定の大人が権力を持つことのない社会が実現すれば、親子愛は消える。特定の相手に自分に関する特権を付与することによってのみ恋は成立する。特権の付与が不均衡であれば恋はより恋らしくなる。すべての成員がたがいに権力を与えないのなら、恋は成立しない。個人の愛は権力の不均衡を要請する。個人の愛は権力の行使によって成立する。そうして愛は言うまでもなく、閉じこもることが好きだ。密室の親子。密室のカップル。究極の密室としての家庭。権力と密室は暴力の両親である。

 大人と男を排した少女たちの密室では、もちろん大人や男のふるう暴力は排除される。本書の「王国」における愛は、社会に回収されることも、性に回収されることも、美談に回収されることもない。家族役割を模するままごと遊びではない。家族という器を逆さにして王国の屋台骨にするという遊びである。それが孕む暴力は、もちろん大人になった私たちの見知らぬかたちをしている。けれども私たちは実はそれを知っているのではなかったか。遠い昔、私たちが少女であったころ、どこかに築いた王国のなかで、育てたものではなかったか。

 もちろん、王国はほどなく破綻する。私たちの社会はそれを許さないからだ。いつか見たような、しかしはじめて見る王国の成立と破綻を、どうぞ見届けられますよう。

松浦理英子『最愛の子ども』文藝春秋

※ このnoteには新しく読んだ本の感想文と、過去に書いて公開したりしなかったりした感想文を載せています。フィクション仕立ての文章もありますが、取り上げる書籍は実在しているものです。

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