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橋本治のこと

 十代のころ、世界はおかしいと思っていた。生まれた家庭はろくなものではなかった。中学校では教師が生徒を殴っていた。高校の制服を着て歩くとスーツを着た男が立ちふさがって、にたにたしながら「いくら」と訊いてきた。誰も正しくなかった。でも死にたくはなかった。死ぬのは怖いからだ。だから私は本を読んだ。本を読んだ。本を読んだ。本は図書館に行けばたくさんあるので、片っ端から読めば誰かが正しいことを言ってくれているのじゃないかと、そう思っていたからだ。

 小説は好きだった。覚えていないほど昔から好きだった。でも思春期に必要としたのは小説だけではなかった。私には目の前の世界について語ることばが必要だった。十五にもなれば好きな小説だけ読んで生きるわけにはいかないとわかる。私にはサバイブのための具体的な武器が必要だった。世の中がおかしいからといってぐちぐち言っている暇はなかった。私は生きたかった。だから本を読んだ。小説は主に防具と回復薬、論説は攻撃のための刃物だった。

 ねえ、世の中って、誰が作ってると思ってんの?どっかの偉い人が作ってると思ってんの?ねえ、どうしてそんな薄ぼんやりしてられんの?世の中はねえ、あんたが作ってるんだよ。そこいらの人が作ってるんだよ。何を知らないふりしてるんだよ。

 そういうようなことを、その大人は言っていた。そうだ、と思った。世の中は私が作るんだ。世の中を作ってるのは人間で、私も人間だからだ。薄ぼんやりして死ぬわけにいかないんだ。

 世界を変えるなんて大それたことを、平気で言う。あんたが変えるんだよと言う。それが橋本治だった。

 思春期がはじまるころ、私にはすでに人工的な「親戚」が何人もいた。たいていは小説家だった。人間としての小説家ではなく、著作の総体としての仮想的な人格である。私は自分が生きていくために、小説を読んで仮想的なおじやおばを作り、何かというと彼らを訪ねた。私はその「親戚」に橋本治を加えるべく、端からその著作を読んだ。小説とエッセイ以外も書く「親戚」ははじめてだったけれど、問題はなかった。私はすでに「親戚」づくりに熟達していたし、橋本治はどんなにややこしい内容であっても中学校を出ていれば読める文章しか書かなかったからだ。思考は要求するが、専門的なトレーニングは要求しない。あくまで在野の文筆家だった。私にとってはそのようなものだった。十代でも頭からぼりぼり噛んで飲みこむことができる、そういう文章ばかりだった。

 論理と情緒は両立するというのが今に至るまで揺らいだことのない私の信念なのだけれど、それは橋本治の本をやたらと読んだせいだと思う。論理をきっちり詰めてきたかと思えば突然情緒でものを言う。情緒で扱うべき領域と論理で扱うべき領域をみごとに腑分けして、「でもそれ両方使ってもの言うのが当たり前でしょ」とばかりに平気で並べてしまう。たとえばロマンティック・ラブ・イデオロギー批判(そういう言い方はしていなかったと思うけど、煎じつめるとそういうやつ)を展開する文章で「でも愛があるから」みたいな意見に対して「そんなもん好きにしろである」とくる。もう可笑しくってかなわない。しかもものすごく正しい。正しいんだけど、ときどき、どう考えても言いがかりみたいなことも言う。最近だと通販に怒っていて「何がお取り寄せだ、買い物くらい自分で行け」とか書いていた。お取り寄せ、そこまでいけませんか。そうですか。まあ私はあなたの本、Amazonで買っちゃうんだけど。

 橋本治の怒りはもはやお家芸だと私は思っていた。あんなに怖くない怒りは見たことがない。橋本治の著作ではしばしば武器が振り回されていて、それはとても強い武器で、でも私はぜんぜん怖くないのだった。あんたも振り回すんだよ、と言われている気がした。

 私はほかにもたくさんの「親戚」を作り、たくさんの武器をばんばん振り回し、生き延びて大人になった。二十代の終わりくらいから「この人は相変わらず好き勝手言ってるなあ」という姿勢になり、「お久しぶりでーす」と数年あけて読むこともあった。

 私はたくさんの作家のたくさんの本のおかげですっかり大人になって、安定した。今ではのんきな中年である。のんきな中年としてデスクワークをしていたら友人からLINEが入った。「橋本治さん亡くなられましたね」。

 ニュースサイトで確認すると、たしかにそうなのだった。トップニュースだった。たくさんの人がこの作家の本を読んでいたんだなと思った。有名な作家だったんだなと思った。有名だと知らなかったわけではないのに、そう思った。

 闘病中だというのは知っていた。だからそれほど強い衝撃を受けたのではなかった。人間は死ぬ。中年にもなるとよくよくそれがわかる。理解するという意味ではなく、骨身にしみるという意味で。私は友人に返信をし(「病気になった話はさんざん書いている人だけれど、急だなあ。ずうずうしく長生きしてくれると思っていた」)、仕事をぼつぼつ続けて、21時半に帰宅した。

 私の「橋本治」はあの大量の著作である。だから著者が世を去ってもきっと支障はない。

 私がまだかわいそうな子どもだったころ、「世界のこのようなところはおかしいよね」「あのようなところもおかしいよね」と、何百回でも尋ねに行った。私の「橋本治」は人間じゃなくて本だから、どれほど訪っても誰にも迷惑がかからないのだった。しかも著作数は莫大で、もういくらでも訪ねて行けて、やたらといろんな話ができるのだった。私がすっかり大人になって、何年ぶりかに尋ねても、ちゃんと新しい本があった。古い本も残っていた。当たり前のように買って読むことができたし、なければ図書館で借りることができた。私は読んだ本を手元に残さないから(きりがないし、ものを持つのが嫌いだから)、買い直して読み、また手放し、また買った。

 そのようにして何度も「尋ねる」ことができるし、それに「尋ねる」対象はほかにもたくさん、たくさんあって、だから私は平気だ。私は、死んだ人を知っていたのではない。本を読んでいたのだ。本は死なない。誰が死んでも、本は死なない。だから今だって、どこかの有名な作家が死んだからさみしいのではない。私がさみしいのはいつものことだ。私はそういう人間なのだ。私はいつもさみしい。さみしくなったら本を読む。もっとさみしくなったらものを書く。いつものことである。そのような私を作った作家のひとりが、数時間前に亡くなった。

※ 引用らしき部分がいくつかありますが、元の文章を当たってすらいないので、引用ではありません。この文章は私の記憶について書いたものです。

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