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私がこうしていれば、あなたはなくならない  クリスチャン・ボルタンスキー『Lifetime』国立新美術館

 9月2日まで六本木でボルタンスキー展をやっている。この人はとにかく幽霊っぽいものをたくさん展示するアーティストである。すなわち、いま現在、東京都心に幽霊のための場所が存在しているのである。長めのお盆みたいなものだ。きゅうりと茄子に割り箸を刺してご先祖様をお迎えしなくなった私たちにはちょうどいい。お墓参りの代わりに(あるいはその延長として)遊びに行くのにふさわしい。このエッセイは2019年夏の新しいお盆イベントのお誘いである。なお、展示に対する解釈はとくに根拠のない私個人の感想で、展示内容に関するやや具体的な記述を含みます。

写真、この幽霊めいたもの

 私たちは写真を撮る。私たちはそれを交換する。この十年というもの、その量はえらく増えた。みんな湯水みたく撮る。ぼさっと生きているだけでスマートフォンにばんばん送られてくる。友だちと一緒にいる私の顔、若い人がかけたフィルタで変形した私の顔、個人が特定できない角度で切り取られてSNSにアップされた私の左半身。ーーこれは、誰だ?

 もちろん私だ。友だちと旅行をしている私、若い人と食事をしている私、呼ばれた飲み会で薄ぼんやりしている私である。しかし姿が抽象的になるまでフィルタをかけつづけたらどうか。あるいは私を知らない人だけがその写真を見たらどうか。それは人のかたちをした影にすぎないのではないか。私自身が三十年後に見たって自分とはわかるまい。写真はそもそもそのように幽霊めいている。

 ボルタンスキーは執拗に人物写真を使う。人の顔かたちにこれほど執着できるものかと感心する。私たちには彼の提示する大量の肖像が誰のものだかちいともわからない。モノクロの、あいまいな顔の、知らない人である。しかも昔の人だ。名もなき幽霊である。しかしボルタンスキーは私たちのそのような認識を許そうとしない。これは小学校の同級生の何々くん、これは何十年前に亡くなって新聞のお悔やみ欄に載ったスイス人の誰それさん、これは二十歳のときの自分、というふうに、延々と語る。語ろうとする。切り抜いて保存し、時に大きく引き延ばし、時に箱に仕舞い、時に祭壇に飾り、個人を保存しようとする。それは失敗する。それはもちろん失敗する。完全に無謀な試みである。「その他大勢」の幽霊を個人として認識させようだなんて。

かわいいお化けの影法師

 よろしい、とボルタンスキーは言う(たぶん)。この場にいるのが誰かわからないのなら、お化けを見せてやる。ボルタンスキーはちょきちょきと紙を切っていろんなお化けの影絵をつくる。どうだ、これが死者のかたちだ、というわけである。紙というのは比喩で、実際は金属かなにかだ。ボルタンスキーはぺらぺらした切り抜きをモビールみたいに吊って影絵をつくる。お化けの影絵だ。妙にかわいい、プリミティブな造形である。この影絵を特集したのが2016年の東京都庭園美術館『アニミタス-さざめく亡霊たち』で、このたびの『Lifetime』でも建物の特性に合わせて展示されている。

 ボルタンスキーは死んだ者やうしなわれた者のことばかり脅迫的に表現している。うしなわれた者たちを忘れまい、忘れさせまいとあの手この手を尽くしている。どうせぜんぶ忘れるのに。忘れられるのに。でも彼はそれががまんできないのだ。ぜんぶとっておきたいのだ。名前を知らないならかたちを覚えろ。彼はそのように言う。彼の影絵はポップだ。悪魔のような者。小鬼のような者。首を吊っている者。骨になった者。マンガめいて怖くない死者たちの影絵をくるくる回して、土着的なお祭りみたい。異国の造形だけれど、でもどう見ても「ひゅうどろどろ」だ。完全にお盆である。私たちは迎え火の代わりに美術館のチケットを買ったのだ。

あなたの心臓の鼓動の保存

 ボルタンスキーは顔写真と影絵をしまう。そして言う(たぶん)。見てわからないなら聞け。これがおれの心臓の音だ。そしてあなたの心臓の音だ。とくと聞け。耳は閉じることができない。

 これは比喩ではない。ボルタンスキーは世界中の人々の心臓の音を記録している。なんなら私のも記録している。瀬戸内海に豊島というアートの島があって、そこに彼の「心臓音のアーカイブ」という作品がある。この作品は海辺の小屋であって、白衣の職員が来客の心臓の音を記録してくれる。私もそこに行ったことがある。だから六本木のでかい美術館で今ひびいている心臓の音は私の心音かもしれないのである。

 でもそんなものはやはり無効だ。だってただの音じゃないか。いくら固有の波動であっても、要するにただどっくんどっくん音がしているだけじゃないか。誰にも聞き分けられない。私の音も、ボルタンスキーの音も、あなたの音も、あなたの大切な誰かの音も。

 こうして心臓音もやはり幽霊になる。私たちは幽霊を聞く。生まれる前からともにある音。驚きや恐怖や喜びのたびに高く鳴らしたであろう音。誰かの胸に耳をつけるたび聞いたはずの音。いま鳴っているのはそれであるにちがいなく、またそれではないにちがいない。だって聞き分けることは誰にもできないのだ。その音は誰の心臓の音であってもよいのだ。取り替え可能な幽霊。私、ボルタンスキー、あなた、あなたの友だち、あなたの恋人、あなたの家族、何十年も前に死んだたくさんの人々。

記憶のトリガー、そして無事のお帰り

 こうして私たちはめでたく幽霊の一員となって展示の中を進む。もう周囲の観客も美術館の職員も「取り替え可能な私の幽霊」である。だって、私は見分けがつかなかったし、聞き分けができなかった。だから私がこの人じゃない理由はない。私があの幽霊たちでない理由はない。

 そこで満を持して登場するのがなつかしいにおいである。干し草のにおいだ。このたびの展示『Lifetime』では小規模だけれど、あきらかに「匂わせて」いる。足を伸ばして表参道のヴィトンのビルディングにのぼると、そこで同じくボルタンスキーの『アニミタスⅡ』という展示がやっていて、こちらは大々的に草を使っている。

 においは記憶のトリガーだ。私たちはなんだかなつかしくなる。記憶がかきまわされて狼狽してしまう。この種の展示としてほんとうに見てもらいたいのは、越後妻有大地の芸術祭出展作品「最後の教室」である。ボルタンスキーが新潟の小さな集落の廃校になった小学校をまるごと使って人々の記憶を閉じこめた展示だ。こいつはまじですごかった。でも2019年の東京の展示だけでも片鱗は味わえる。干し草のにおいが私たちの目の前に幽霊を連れてくる。なつかしく親わしい、それぞれの幽霊を。

 私たちが思い出すかぎり、うしなわれた者たちは完全にはうしなわれない。私たちは思い出す。私たちは思い出される。でも、ーーもちろんそれは無謀な試みにすぎない。だってみんな死ぬ。愛したってどうせ死ぬ。愛されたってどうせ死ぬ。戦争とかで大量に死ぬし、そうじゃなくてもどうせ死ぬ。

 ボルタンスキーは芸術家だから、「いや、まだやる、まだ残す」と言っているけれど(たぶん)、私たち観客はこのあたりで美術館を出る。「そのうち死ぬよな」と思いながら出て、でもまだ生きている。ボルタンスキーのいいところはそのようにしっかりと現世に観客を戻すところだ。親切なのである。幽霊がいるのはお盆のあいだだけ。あの人やあの人が戻ってくるのは夏のほんのひとときだけ。送り火を焚いて、さようなら、さようなら、さようなら、私のまだ覚えている幽霊たち。

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