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生きるために意味を捏造するか、生きる意味のなさを直視するか 川上未映子『ヘヴン』

 子どもが苛められる話はいやだ。

 私たちはかつてみんな子どもだった。そして暴力に遭遇した。学校で苛められたことがなくても、子どもだった存在が理不尽な暴力に遭ったことがないはずがない。程度や期間や相手はいろいろだろうけれども、子どもというのは本質的に無力なので、ほとんど必ず、ひどい目に遭ったのに黙ってがまんした経験がある。ないという人は忘れているか、暴力を振るう側だけをやったのだ。

 だから子どもが苛められる話をいやだと思うのはたぶん私だけではない。きっとみんな思い出していやな気分になる。反撃する力を持っていなかった、逃げるという選択肢を知らなかった、相手のおこないが不当だということを理解できなかった、世界を自分の枠組みで解釈することができなかった、小さい自分のことを。

 『ヘヴン』の主人公は苛められている。斜視だからというので、同級生から継続的に暴力を受けている。彼はそれを所与の前提のように受け入れている。助けを求めることも、逃げ出すことも思いつかない。それは単にそれができることを知らないから(つまり子どもだから)なんだけれども、主人公と同様いじめの対象にされている不衛生な同級生「コジマ」はそこに意味を見いだし、彼に「わたしたちは仲間です」と書いた手紙を渡す。

 コジマは価値を逆転することで自分を救う女の子である。コジマは言う。わたしたちが苛められているのはわたしたちが大切なことを知っているから、しるしを持っているから、わたしの汚さはしるし、君の斜視はしるし、特別であることの証、わたしは君の目がすき。

 好き、と川上未映子は書かない。すきと書く。すき、すき、大すきと書く。主人公の言うところの「6Bの鉛筆みたいな」かわいそうなコジマの声は、そのように発音する。小島でも児島でも小嶋でもなく、嘲りのための記号として教室で消費される十四歳のコジマの声。

 コジマは最初のうち、自分の価値観にそれほど強烈な確信を持っていない。その時期のコジマはかわいい。弱々しく「仲間」である主人公に近づき、少しずつ自己を開示する。主 人公もそれにこたえる。彼女が不安にならないよう、そうして安心しすぎて不安にならないよう、安心でも不安でもない「標準」の状態を得るための作業に協力してあげようとする。

 それはとても美しい友情の光景だ。自分の持っているものを、それがそれでなくならない程度になら持っていってもいいよと、主人公は言う。全部あげる、ではない。全部あげるのは相手に自分をあずけてしまう(しばしば恋に見られるような)自己愛としての自己犠牲だ。そうではなくて、自分の持っているものが不可逆的に損なわれないくらいの量をあげる。少しずつ、ずっと、死ぬまで、あなたのほしいものを、あなたにあげる。

 相手がその気になればそのものを損なうことができる距離に自分を置いて、無防備に持っているものを差しだして、相手が自分の許した範囲でしかそれを持っていかないと確信している。彼があげたものはそのような信頼であって、それはきわめてまっとうな「友だち」の振る舞いだ。そのような主人公の友情を受け取るコジマはかわいい。とても美しい場面なのでここにディテールは書きません。読んでほしい。

 でもコジマはかわいいままでいてくれない。コジマと主人公の受けている暴力はあまりに凄惨であり、主人公は抑鬱状態に陥る。継続的に暴力を振るわれたときの反応としては、まあふつうである。しかしコジマは鬱にはならない。彼女の見いだした「宗教」、自分たちが特別だから被害に遭うのだという妄想への帰依を強くする。コジマは自分たちの苦境の意味を確信し、状況が悲惨であればあるほど生の意味を見いだす。殴られれば痛い、殴られるのは選ばれた存在だからだ、だから殴られて痛いといい気分だ。コジマの価値はここまで転倒する。

 確信に満ちたコジマはもうかわいくない。気持ち悪い。殴られながら選民意識でにたにたしている不潔な中学生。不気味だ。本書の作者である川上未映子は哲学者・永井均のゼミ生である。永井均の薫陶を受けた作家が弱者による価値の転倒(ルサンチマン)を美しく描写するはずがない。それは奴隷の内心における一揆、強者への恨みつらみ嫉みを原動力とした逆転劇なのだから。殴られない世界を作るための思想ではなく、殴る人間より殴られている自分を「上」に持っていくための思想なのだから。それに成功したところで殴られている自分は決してなくならず、殴る者に存在価値を依存しているのだから。

 論理的に考えて苦痛に意味などない。殴られ嘲られるのは単に自分が弱者だからである。苦痛を耐えるために「これは選ばれたしるしだ」とするのは欺瞞にほかならない。しるしなんかない。選ばれてなんかいない。ただ殴られているだけだ。選ばれし者の苦難という物語は数多くの人を救ってきたけれど、理屈で考えたらそんなのはどうあっても薄気味の悪い欺瞞なのである。

 では、「苦痛の意味などない」と確信した側は気持ち悪さから逃れられるのか。その人が同時に社会秩序のために共有された「倫理」を内面化すれば、そうひどいことにはならないだろう。でもそれを必要としない場合、実に不気味な、悪魔的な人間になる。これが本書のもう一人の登場人物・百瀬の立ち位置だ。

 百瀬は中学校生活における強者である。学力があり、外見もよく、なにより他者との間で自分を優位だと感じさせる能力に秀でている(「コミュニケーション能力が高い」のだ。コミュニケーション能力!なんていやな言葉だろうか)。百瀬は賢いから苦痛は快楽と同じ意味のないものだと知っている。たまたま訪れるだけのものだとわかっている。そして自分はたまたま「強い」ことも知っているから、安寧のうちにその意味のなさを受けいれている。百瀬には統率力があり、他人への印象をコントロールしてうまくやることができる。だから大人の目に触れない場所で同級生に暴力をふるうことにまったくためらいがない。暴力を振るうと楽しい、自分にはたまたま暴力を振るう力がある、だから暴力を振るう。そういう中学生である。

 こういう子どもに暴力をやめさせるには「人を殴ったら必ず不利益な目に遭う」という仕組みをつくるよりほかに方法がない。

 なぜなら百瀬は正しいからだ。人を殴ってはいけない理由はない。彼はたまたま強者であって、だから暴力をふるいたいときにふるう。それは論理的にはまったく正しい。強いものが弱いものを殴る、殴ると気持ちよくなる、見つかるようなへまはしないから罰は受けない、したがって自分にデメリットはない、だから殴る。完璧な論理である。こういうガキが「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うのだ。この問いは哲学の問いではない。たまたま強者に生まれたクソガキが自らの正しさを誇示するためのせりふである。

 このような「正しい」強者の暴力を防ぐには、ただ彼を強者でなくするよりほかに方法がない。「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う子どもに振り回される大人を、私は愚かだと思う。人を殺してはいけない理由などない。それはただのルールだ。法律あるいは倫理という人工的なルールであって、それを支える根源的な正しさはない。根源がなければ従わないという子どもは痛い目に遭わせてルールに従わせるのが大人の役割だろう。この世のすべてに根源なんかないことを知っていて操作的に「なぜ」と問うのだから、有効なのは罰則だけである。

 そう、百瀬の不気味さは、私たちが従っているルールに実は根拠がないという真実によるものだ。私たちは百瀬のせいで足下の盤石に見える大地がほんとうは空洞でそこに薄い板を渡しているだけだということを思い出してしまう。

 哲学ではなにぶんこういった「ルサンチマン気持ち悪い」「ニヒリスト不気味」みたいな皮膚感覚を描写しにくいので、『ヘヴン』がそれをしっかりやってのけたことはとても意味のあることだと思う。暗い話ではあるけれど、美しい場面はほんとうに美しいし、会話のテンポもモノローグのリズムもよくて、小説を読む楽しみはもちろんある。

 それでも私は やっぱり、子どもが苛められる話はいやだなと、そう思うけれども。

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