死者を呼う ハン・ガン『すべての、白いものたちの』

 ※ 書籍の内容に触れています。

 こんなツイートをした。

 小説のようであり、詩のようであるけれども、なによりも儀式に見えた。儀式というのはたとえば初詣で神社に行って二礼二拍一礼してお賽銭を入れる、あれである。そういうのを人間は呪術と呼んで、ずっとやってきた。超能力とかの話ではない。共有された手順を執り行って人間の心理状況と行動を制御するやつである。式ともいう。結婚式とか葬式とか入学式とか、そういうやつである。

 本書はあきらかにそのような「式」であって、しかしどうしたことか、私はその手順を知らない。手順を知らなければ式は無効だ。本来はそのはずである。「これから小学生になるんだよ」と言われて、ランドセルをもらって、そうかと思って「ちゃんとしてなきゃ」と気を張って、列を作って、校長先生の話を聞いて、先輩たちに校歌を歌ってもらって、集合写真を撮って、それで「小学生になったんだ」と思って、毎日小学校へ行く。式というのはそういうものである。

 本書の最初の三分の一は主人公とその姉の話である。姉は生まれてすぐ死んでしまって、主人公はそれを痛ましく思う。痛ましく思っても主人公は健康なので成長して子をなし仕事をしてワルシャワに呼ばれる。主人公はたぶん、それをおかしいと思っている。姉が死んでいるのに、どうしてわたしは生きているのか。どうしてわたしだけが喜怒哀楽を感じ、自分の爪痕をつけながらこの世に生きているのか。

 主人公はその不公平に耐えることができない。自分が生きていることの正当性のなさに納得していない。どうしてわたしが生きているのか。あなたは死んだのに、どうしてわたしは生きているのか。

 私はそういう話を書いたことがある。

 誰でも、生きていることは正当ではない。生まれてすぐ死ぬ人がいっぱいいるからだ。同じ人間なのに生きていかれなかった人がいっぱいいるからだ。そのうえ同じ属性であっても死んだ人はもちろんいるのである。それなのに自分はこんなにものんきに生きて平均寿命の半分近くをだらだらと楽しく享受してきた。私はそこから目をそらし、たとえば毎月アフリカの女子教育に寄付をしたりしてごまかして生きているけれど、本書の主人公はぜったいにごまかさない。目をそらさない。彼女はもっとも近しくもっとも不公平な他者である姉を、だから呼び戻そうとする。

 主人公の姉は生まれてすぐに死んだ。主人公は韓国の人である。仕事で呼ばれてワルシャワに行く。私は初読のさい、主人公が海外という外部を使って姉という死者を呼う儀式をしているのだと思った。主人公は海外の都市に行き、「白いもの」を集める。主人公の幼い子はそのような母親を見て、自分が見た「白いもの」の話を、毎日母親にする。死者を呼んでいるのだ。私はそう思った。それはとてもいけないことだ。死者を呼び、共に暮らすなんて、ほんとうによくないことだ。そしてとても美しいことだ。私たちの誰が死者を恋しく思わないだろう。死んだ祖父母を、死んだ父母を、死んだきょうだいを、死んだ伴侶を、死んだ友だちを、死んだ恋人を呼ぶ声が、この世からなくなったことがあるか。目の前の人が死ぬことを考えて恐ろしくなったことのない人があるか。

 でもそれはまちがっていた。「主人公が海外に行っている章の主体は、死んだ『姉』である」という意味のことを作者が言っていたのだ。そう言っていたと、翻訳者がWeb記事で書いていた。私はびっくりしてそのWeb記事のウインドウを閉じてしまい、今日思い返して探した。でも見つからない。見つけた人がいたら教えてほしい。あれはまぼろしだったのだろうか。

 ※ 2019年2月13日加筆。見つかりました。
     http://web.kawade.co.jp/bungei/2484/

 もしもまぼろしでなくて、ただ私のWeb検索が甘かっただけなのだとしたら、私の読みは(「反魂術だ」という意味では同一であるにせよ)まちがっていたのである。「主人公はワルシャワで死者を呼ぶ儀式を執り行って死者と一緒に暮らしていた」のではない。「ワルシャワにいた『主人公』は死者であった」のだ。

 ワルシャワで、主人公は街を歩く。「白いもの」を集める。すべての、白いものたちを。あれは死者のしたことだったのか。それとも「死者とともに暮らすこと」はそのまま「死者になること」なのか。そうにちがいない。主人公も私も、死んだことがないのだから。超自然を私は認識しない。私はありきたりな論理の子であり、つまらない科学の子である。だからそうだとしか思えない。

 ワルシャワには亡霊がよく似合う。主人公はそれを知っていて行ったのかもしれないと思う。歴史のためだけにそう思うのではない。行けば誰でもたぶんそう思う。たとえば、ホテルチェーンのラディソンというのがあって、それはもう当たり前のように世界のあちこちにあるのだけれど、ワルシャワで「ラディソンに行きたい」と言っても誰もわからない。道行く人もタクシー運転手も首をかしげる。私が予約票を見せると「ああ、なんだ、ホテル・ソビエスキか」と言う。「もちろん知っているよ。連れて行ってあげよう」と言う。着いてみるとたしかにラディソンである。そう書いてある。でもそのぺらぺらした電飾看板の下には「ホテル・ソビエスキ」と刻んだ石が残っている。

 儀式のはてに、死者は帰る。生者は残される。見てはいけないような、外国の、あるいはきわめて個人的な儀式。それが小説として成立してしまうのが、本書の希有なところである。

ハン・ガン、斎藤真理子(翻訳)『すべての、白いものたちの』河出書房新社 

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槙野さやか

短編ブログ『傘をひらいて、空を』(http://kasasora.hatenablog.com/)を書いています。依頼原稿は 「文藝」19年春季号(河出書房新社)書評、「フミナーズ」短編連載(https://fuminners.jp/)ほか。kasa.sora@gmail.com
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