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2019年メットガラのテーマ『<キャンプ>についてのノート』について スーザン・ソンタグのすすめ

 スーザン・ソンタグはかっこいい。私はソンタグの著作をにこにこしながら読む。あまりにかっこいいからちょっとくらい内容がむつかしくても「かっこいいなあ」と思っているだけで楽しい。たとえばこんなふうだ。

 芸術作品に参与することは確実に自分を世界から切りはなす経験を伴う。しかし芸術作品それ自体は同時に、われわれを何らかの点でもっと開かれた豊かなものにして世界に連れ戻してくれる活気に溢れた魔力を持ち模範的なものである。※1

 「芸術作品に参与することは確実に自分を世界から切りはなす経験を伴う」。どうですか、このしびれるワンセンテンス。私なら「夢中でマンガ読んでるときって、自分が自分だっていう意識がなくなるじゃん? 入りこむじゃん?」って言う場面だよ。同じ内容をソンタグ先輩が言うとこんなにかっこいいんだよ。

 私はすぐ「世界」とか「魔法」とか言う。その原因のひとつがソンタグである。私が「<キャンプ>についてのノート」を最初に読んだのは二十年近く前で、ソンタグはまだ生きていた。そのころ私は若い女で、しばしば苛ついていた。なんとなれば当時、若い女が客体として消費される傾向は今の比ではなく、生きているだけで笑いものとして扱われていたからだ。「黙っていればモテるのに(笑)」「いや、黙ってても無理じゃないの(笑)」みたいな揶揄は日常だった。私は「燃す」と思っていた。「私が女だからやいのやいの言ってくる、その文言のぜんぶに着火して、灰も残さず、燃す」と思って働いて本を読んで文章を書いていた。

 ソンタグは若い女であるような時期から著作をものし、死ぬまでその強い意志に基づいて世界に対して語りつづけた。私は彼女の諸著作の内容だけでなく、その態度にもたいそう感激したものだった。最高にいかす、と思った。私はこっち側がいい、と思った。こっち側というのは、「黙っていろ」と嘲笑する側の反対、私が許せないと思う対象の悪口を述べると「いいぞ、もっと燃やせ」と笑う女の子たちの側、料理やお花柄やものを言う女を堂々と好む男の子たちの側だ。レディとジェントルマンとけだもののぜんぶを選択肢として持っている人々の側だ。

 2019年メットガラのテーマ「<キャンプ>についてのノート」は『反解釈』という本に入っているエッセイである。脚注を入れてもたったの31ページの短い文章だ。できれば『反解釈』全体を読んだほうが話がわかりやすいんだけど、31ページだけ読んでもちゃんとわかる。

 もしもあなたが「いくら短くても、そういう小難しい文章はあんまり好きじゃないんだよね」「読むのにセンスがいるんでしょ」「それに難しい文章を書く連中って自分たち普通の人間を見下しているようなところがあるじゃん?」と思われたなら、どうぞ安心してほしい。ソンタグは権威主義的な態度や階級を固定するようなふるまいをひっくり返す腕力を持っているからだ。

 知性もまた実は一種の趣味である。すなわち、それは観念についての趣味なのだ。(頭に置いておかねばならない事実のひとつは、趣味は非常に不均一に発達しがちだということである。同じ人物が、視覚的によい趣味をもち、さらに人間についてよい趣味をもち、さらに観念についてよい趣味をもっているということは、めったにない。)

 特定の人間が「ハイセンス」であって、それが偉いということはない、とソンタグは言っているのですね。人を見る目はすごくあるのにファッションが超ださい、みたいな人いるじゃないですか。このときの「服を選ぶ基準」くらいのものなんですよ、知性って。そしてファッションでも思想でも、一般に評価されるものがよいのではなくって、だめなところを「だがそこがいい」と感じる人だっている。ソンタグを読むとそういうことがよくわかります。私は若いころにそういうふうにソンタグを読んで、それでもって大船に乗ったつもりで生きてきた。むつかしそうな言葉で威圧してくる人間に気後れしたときの呪文として最適です。それではみなさんご唱和ください。「知性もまた一種の趣味である」。

 ここでいう趣味というのは、裏づけのないものだ。直接学ぶことができないのに、確実に「ある」と感じられるものだ。私はファッションセンスがぜんぜんない人間なんだけど、他人が着ているものの素敵さはなんとなくわかる。そういうものなのだ。そしてファッションは、型どおりにやるとすごくださくなる。「あなたは○○なのだからこれを着なさい」という態度は論外、ださいとさえ言ってやる価値がない。「40代女性が失敗しがちなイタいアイテム5選」みたいなやつね。ああいうのはゴミです。見かけたらソンタグでもって燃すといいです。

 体系の鋳型にはめこんだり乱暴に裏づけたりできるような趣味は、もはや決して趣味ではない。※3

 さて、では<キャンプ>とはいかなる趣味か。人工的で、装飾的で、内容より見た目の感覚に訴えるもので、誇張されているものだ、とソンタグは書く。笑いは重要だけれど、姿勢としては大真面目でかつその真面目さができそこないであること。人間そのものの美も誇張されていること、すなわち、男性的な男のもっとも美しいところはどこか女性的で、女性的な女のもっとも美しいところはどこか男性的であること。そういう感覚が<キャンプ>なのだと書く。

 感覚の話をしているので、ソンタグ自身も定義はせず、芸術作品の事例を並べて説明している。そりゃあそうだ。定義できたらエッセイじゃなくて論文を書いたと思う。それからソンタグは<キャンプ>に対して全肯定も全否定もしていなくって、距離感を保って書いている。<キャンプ>には文化が大衆化するにあたっての新たな差異化という側面もあり、「これがわかっている人間は上等」というメッセージともなう、ある種の貴族化でもある。そのいけすかなさも感じてほしいと思って書いたのだろう。

 本書が書かれたのは1970年代のことだから、挙げられている事例が少し古くて、現代の読者にはぴんとこないかもしれない。そこでメットガラ2019である。私は二年前までこのイベントの存在すら知らなかったのだけれど(ファッションに疎いから)、おしゃれな友人によればハイファッションの頂上決戦みたいな催しだそうである。毎年テーマが設定されていて、今年はそれが「<キャンプ>についてのノート」だったというわけだ。すごいテーマである。だって、「おまえのそれはキャンプじゃない」と指さすような態度はどう考えてもキャンプじゃないからだ。

 キャンプ趣味は、何よりも、享楽ないし享受のしかたであって、判断の仕方ではない。キャンプは寛容なのだ。それは快楽を欲している。ただ見かけ上、悪意ないしシニシズムに見えるだけなのだ。(かりに実際にシニシズムであるとしても、それは仮借なきシニシズムではなく、やさしいシニシズムである。)※4

 いまいろんなメディアにメットガラ2019の写真が出回っているから、きっとソンタグの本も売れるだろうと思う。ソンタグ先輩はほんとうにかっこいいんだ。みんな読んでね。

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※1. 「様式について」スーザン・ソンタグ『反解釈』ちくま学芸文庫、p52
※2. 「<キャンプ>についてのノート」同上、p433
※3. 「<キャンプ>についてのノート」同上、p433
※4. 「<キャンプ>についてのノート」同上、p460

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