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『最初の悪い男』感想対談ーー世界を閉じるための「恋」、世界に出ていくための「恋」

※ ミランダ・ジュライ、岸本佐知子訳『最初の悪い男』を読んだ方を想定しています。作品の展開に触れている部分があります。

いちこ(ブログ「イチニクス遊覧日記」、「ポテトチップス・ラブ」)
槙野さやか(ブログ「傘をひらいて、空を」)

いちこ:そろそろ『最初の悪い男』の話をしたほうがいいですか。

さやか:失礼しました、気がついたら普通のおしゃべりになってました。冒頭からいきますか、冒頭からしばらく、主人公(シェリル)の生活の話ですよね。どういう女性だと思われましたか。仕事以外の私生活に他人の気配がなくて、ちょっと妙なルールにのっとって規則正しく生活していますよね。

いちこ:そうですね……、すごくプライドの高い人なのかな?と思いました。

さやか:プライド。

いちこ:思うに、彼女の”システム”に則った生活に他人の気配がないのは、他者の視線がそこに入り込んでしまったら、自分の生活、つまり自分自身の価値が他者の価値観、外部の物差しで判断されてしまうからじゃないかなと。それを避けるために一人でいるのかな、と思いました。

さやか:自分のアウトプットとか好きなものとかではなくて、自分自身の価値を守りたいという。

いちこ: 自分に価値があるということを信じてはいるけれど、それを信じ切れなくて1人の世界を保っている。なのに、他者からそれを保証してほしいという願望もあるんじゃないかなって。

さやか:でも保証されるには他者とかかわらなければいけないでしょう。シェリルはそれをしていないですよね。

いちこ:そこでフィリップにアプローチをしているんじゃないかな、と思いました。多分、保証は非常に即物的なものでよかったんですよ。たとえばフィリップに性的に求められるというような。

さやか:私は、シェリルのフィリップへの感情は、わりと健康な性的欲求の発露だと思って、いいじゃん、どんどんいきなよ、みたいな気分で読んでました。でもぐずぐずしているうちにクリーが家に来ちゃうじゃないですか。で、クリーのほうがどう考えても圧倒的に性的に魅力的だから、そっちへ行くよね、恋もしちゃうよね、わかるよ、と思っていました。

いちこ:めちゃめちゃ意地悪な見方ですけど、シェリルがフィリップをいいなと思っていたのは、フィリップならいけるってちょっと舐めてたんじゃないかと。

さやか:フィリップならいける。

いちこ:自分はフィリップより二十二も年下(p62)って強調しますけど、つまり彼に比べれば自分にはまだ若さがあり、それが魅力になりうると思っている。

さやか:うーん、思ってもみなかった感想です。なるほど。シェリルが自分の価値をキープすることに注力しているとして、価値っていろいろあるじゃないですか。職場ではできるけどプライベートでは薄ぼんやりしてるとか、みんなに愛されているんだけど自分は誰にも心を開いていないとか、そういう多面性があるでしょう。保証してほしい価値というのはその一部、部分的な話なんですか。

いちこ:超部分的なことでいいと思うんですよ。そしてフィリップに保証してもらえそうだと判断したのが性的な価値なんじゃないかと。

さやか:人格とかではなくて。

いちこ:人格とかではなくて(笑)

さやか:そ、そうなんだ。

いちこ:そうやってシェリルはフィリップを選んだと思うんですよね……。いけそうだから。

さやか:私はロマンティックなラブへの憧れの発露だと思っていました。恋はしていないにせよ、恋のようなことをしたいなとあこがれていたのではないかと。

いちこ:その解釈はすごくピュアですね。

さやか:シェリルは社会に認められる形式のロマンティックなラブをやりたい人だと思っていたんです。というのも、クリーとシェリルはふたりとも無用な確認をお互いにするんです。「私たちは男が好きだから」「私たちはおたがいにセックスの対象が男性だから」という意味のことを言うんです。「だから私たちの間にそういうことはないわよね」という確認をする。それは男性同士がホモソーシャルな関係において「俺たちホモじゃないから」と言いあうことの反転のように見えるんですよ。

いちこ:マンガとかで、よく恋愛市場をリングに例えたりするじゃないですか。「東京タラレバ娘」に出てくるような。

さやか:ごめんなさい、私それ知らないです。「東京タラレバ娘」も3話までしか読んでいない。

いちこ:「東京タラレバ娘」に「結婚しない限り女はリングから降りられない」というようなセリフが出てくるんです。

さやか:私に見えないところでそういった言い回しが人々に理解されているのですね。そしてミランダ・ジュライにはそれが見えている?

いちこ:ミランダ・ジュライが書いているのはそれとはまた少し別の話かもしれないですが、シェリルくらいの年代で結婚していないヘテロセクシャルの女性をフィクションで描く際、恋愛市場に乗るか乗らないかというギリギリの年齢として扱われることは多いですよね。

さやか:私はそのあたりを理解する社会性と繊細さがなくて、先日友人に「精神が山賊だ」と言われたので、たぶんわかっていないのですが、恋愛市場というものがもしあるとして、そこには乗りたいときに乗って降りたいときに降りればいいだけの話ではないかと思うのですが。

いちこ:そうそう。

さやか:法律婚による契約関係という選択肢はあって、それ以外は、あのう、相互の自由意思で関係を築いて、やったらいいのでは?

いちこ:私が思うに、そういうふうに思える人もいれば、そうは割り切れずリングの上で戦いつづけなければ、と思ってしまう人がいるんじゃないかな。そうじゃないと自分で自分にOKを出せない。

さやか:社会性があればその感覚がわかるのかな。私のは山賊の思考だから……

いちこ:(笑)私も基本的にはそうですよ。

さやか:私、豚肉好きだから、イノシシとか喜んで食う。

いちこ:わりとおいしい(笑)

さやか:おいしいですよ。えっと、でも要するに「山賊」じゃない精神の人には、強い社会性がある。良くも悪くも。

いちこ:私が思うに、『最初の悪い男』の主人公は、そういった社会的な価値判断に自分を乗っけなきゃいけないと途中までは思っていたんじゃないかなと。自分の生活は自分で守りたいし、自分のルールで生きていきたいけれど、ちょっとフィリップと遊ぶとかで、自分はリングから降りたわけではないということにしておきたいと考えたんじゃないでしょうか。打算的な考えですが。

さやか:ということは、求めていたのは互いの根幹にはかかわらない関係?めんどくさい人間同士のやりとりとかはない……?

いちこ:フィリップにはそういうふみこみ方をしていなかったじゃないですか。それはつまり自分の生活を賭ける気はなかったってことじゃないかな。そして私はあれは横着だと感じたんですよね。自分の生活には関与させず、性的な価値づけだけはしてほしいという。

さやか:なるほど、遊びの範囲でね。

いちこ:それなのにクリーがやってきて、最初はいやだと思っていたのに、否応なく巻き込まれることになっていくという話なんだと思っていました。

さやか:つまりシェリルは当初、責任を取ってまで他者と深くかかわることをしなかった女性であると。しかしながら、誰かに自分の価値をセクシャルな意味で担保してほしかったと。恋がしたいとか、そういう感情ではなく。

いちこ:そうそう、セクシャルな意味で自分の価値を担保してくれるインスタントな関係を求めていたけれども、セクシャル云々だけじゃない、価値の担保とかでもない、他者とかかわっていくことを学んだ女性の話なんだと思いました。きれいに言えば。

さやか:あんまり意地悪じゃない感じで言えばね。

いちこ:なんでそう思ったかっていうと、シェリルの、マイルールで動かしている生活の感じはわりと共感できるなと感じていて。でもそういうのって閉じていきがちなんですよね。

さやか:いちこさんもそうなんですか。

いちこ:私は毎日家でやりたいことをリストアップしておくのが好きなので、急な予定の変更とかが苦手です。

さやか:私は放っておくと無軌道に生活してしまうたちなので、冒頭のシェリルの生活ぶりは強迫的にも見えてしまうんですが……。自分に合わせて当然という態度の他人は嫌です。冒頭のシェリルのことは、そういう意味ではわかる。

いちこ:クリーが登場したとき、主人公はクリーのこと絶対いやですよね。

さやか:絶対いやだったと思います。一目惚れの反対。シェリルは教育を受けていて、秩序だっている。それに対してあのクリーはどうだ。

いちこ:野生です。

さやか:ザ・肉体。敬語とか使えって思う。あの子はあと二、三年学校に入っていたほうがいい。行儀見習いとか。

いちこ:(シェリルに対して)感謝とかないの?って思いますよね。最初は「早く追い出しちゃいなよ!」と思って読んでいました。

さやか:人の家に置いてもらっておいて、ねえ。

いちこ:でもなんだか突然ようすが変わるじゃないですか。ああいうのってすごくいい瞬間だと思う。

さやか:私が彼女たちをすごくいいなと思ったのは、護身術のビデオの真似をするところです。シェリルはそのアイデアを出した人で、クリーは両親がそのビデオを作っているから内容をよく知っていて、それがふたりの唯一の共通点。そこには肉体性があって、クリーは肉体の人間で、シェリルは肉体を持てあましていた人間。眠れなさそうだなと思ったらそこらへん二、三周走ってきて筋肉が疲れたからよーし眠れるわー、みたいなことができない。

いちこ:(笑)そうそう。

さやか:そこにあらわれるクリーが、ザ・無教養、ザ・肉体、しかも礼儀知らず。そのふたりが濃密なコミュニケーションを取ろうとするとああいうおもしろおかしいことになって、それがとても美しくて、私はあれはすごく好きですね。

いちこ:ずっとクリーにイラついていたのに「クリーがシェリルと住みたいと言った」と聞いて(p85)、いきなりまんざらでもないみたいな感じになるじゃないですか、あの時だと思うんです。あのひとことで、シェリルは承認を得る対象がクリーでよくなったんだと思います。

さやか:そっかー、なるほどねー、それはすごくいいなあ。でもいちこさん、当初シェリルが認められたがっていたのは性的価値だと言っていたじゃないですか。私は個人的に女性から性的価値を認められることにぐっとくるのはわかるんだけど、シェリルは、どうなんだろう、そうなんですか。

いちこ:それはフィリップから貰えそうなのが「性的な承認」だったからだと思います。でもクリーに対しても、最初から性的な魅力を感じてたとは思う。

さやか:クリーはセクシーだけど、あんなに若年で無教養で、精神も幼いじゃないですか。それでもいいわけ?

いちこ:むしろ自分と正反対の人間だからぐっときたんじゃないかな。フィリップとも年齢差があったけど、それについては単に「私のほうが若いからいける」と思っていただけで、そこは全然違うと思いますね。

さやか:かわいそう。

いちこ:打算ですよ、打算(笑)

さやか:なにも職場で見繕わなくても、おしゃれしてそういう相手を探している人のいるところに行って、好ましいと思う人に「ヘーイ」って言えばいいじゃんねえ。

いちこ:シェリルはめんどくさがりだから。たとえそういった場所に行ったとしても、声をかけられるのを待って、今日はいい人がいなかったって言って帰ってきそう。だから傷つきたくなくてフィリップを選んだのに、彼が自分よりずっと若い相手に恋をしていると知ってプライドを傷つけられる。けれど、その直後に「クリーがシェリルと住みたいと言った」がきて、分岐するんですよね。

さやか:私、フィリップと若い恋人とのくだりはすごくびっくりして、というのも、年長の男の側の年齢はさておいて、恋人の女の子の年齢は正真正銘の子どもじゃないですか。通報しなきゃいけないやつですよ。そういう相手を性愛の対象として、なおかつその相手との逐一を友だちであるシェリルにメールで送ってくるわけですよね。もう一から十までわからない。

いちこ:ドン引きですよね。

さやか:シェリルがそんなメールにいちいち返信している段階で完全に引いたんですけど、でもそのあとクリーが家にやってきて、ふたりの濃密な関係が物語の軸になるので、私はシェリルを「私が理解できないしする必要もない人」と判断しなくてよくなったんです。ギリギリでした。そのあとの展開は、スピーディーだけど、私にはぜんぶわかるものだった。

いちこ:うん。

さやか:(クリーが妊娠して出産する展開について)子どもが生まれるというのはああいう突然のことだし、私は産んだことないけど、子どもっていうのはああやって突然やってくるものだと思っているところがあります。とにかく子どもはやってきて、幸いに生きている。そして生きている子どもを、いろいろ理不尽かもしれないけど、育てる。それはすごくわかる。

いちこ:私はフィリップとの間にはロマンティックなラブはなかったと思っています。ロマンティックなラブはクリーとの側にしかなかった。

さやか:私は、女が男に恋をして、男が女に恋をする、ふたりは同じ会社で自然に出会って……、という社会的に整えられた形式へのあこがれが主人公にはあったと思っています。でも実際のロマンティックな感情の奔流はただひとり、クリーに向かいますよね。私は、恋というのはああいうものだと思う。

いちこ:いけそうな相手を選択するというような作為の外から否応なしにやってくるんですよね、恋は。

さやか:それはまったくそのとおりだと思います。でも私は内気な人に対する理解があまりにも不足していたと思う。

いちこ:いや、私の理解が正しいとは限らないので。

さやか:私、冒頭のシェリルの生活はわりと楽しそうだと思って読んでました。自己完結していて、ルールを決めて、けっこう好きな仕事をして、中年になってその仕事も一段落して、ときめきを求める気持ちがあって、職場の人をいいなと思う、そういう生活。わりと幸せそう。

いちこ:(笑)

さやか:『シェイプ・オブ・ウォーター』の主人公みたいな。でもシェリルには、喉に大きな「ヒステリー球」があるんです。あれは自分の感情を抑圧している人に出るやつですよね。そこで「えっ」と思って。「ミランダ・ジュライは主人公の抑圧を示唆しているぞ、シェリルは何を抑圧しているんだろう」と。それで「わかった、性欲だね!」って。

いちこ:(笑)ピュアな意見ですね。

さやか:今、私が話してたら、いちこさんめっちゃ笑うじゃないですか、たぶん、そこに私が1グラムもわかっていないことがあるから。

いちこ:そういう見方もあるのかと思って。どちらが正しいとかではないから。

さやか:はずかしい。はずかしい(笑)

いちこ:小説の読み方に正解はないので……!

さやか:いやあ、つまり私は、「食欲をちゃんとケアしてあげてないとか、そういうのもふくめて、身体の欲求をおろそかにするところがあるんだろうな」と思ったんですね。

いちこ:それじゃあ、あの赤ん坊に対してはどう思いましたか。

さやか:物語後半で生まれてくる子どもに対しては、すごくうらやましかったです。ああやって突然やってきてくれるなら、私たちは社会からやいのやいの言われずに子どもを持つことができるでしょ。

いちこ:そうですよね。では、物語前半から出てくる、シェリルの思い描く架空の赤ちゃん「クベルコ・ボンディ」についてはどうですか。

さやか:クベルコ・ボンディについては、私は、彼女の得体の知れない期待感やいろんな欲求の対象だと思っています。あの主人公には、運命とか劇的なロマンティック・ラブみたいなものを求める気持ちと、「白馬の王子さまなどいないし、必要ない」という気持ちの双方があると思うんですね。ちょっとものを考えたら、男の王子さまなんてものはいたってしょうがないわけです。それでも運命を希求するとき、「運命の子ども」という歪ませ方をしたのだと思います。自分が積極的に子どもを産むというのでもない。運命は外からあらわれる。だから物語後半でほんとうに子どもがやってくる場面、あれは信仰がかなったような、ありがたーい瞬間なんですよ。

いちこ:うん、うん。でも最初のほうで同僚が職場に赤ちゃんを連れてきたとき、シェリルは苛々していましたよね。

さやか:いやがってました。私なら、こう(赤ちゃんをあやすポーズ)ですよ。

いちこ:ですよね。でもシェリルはそうじゃなかったので、この人は現状に満足していないのかな、と思いました。

さやか:いちこさんは、クベルコ・ボンディはどういうものだと思いますか。私は転写された白馬の王子さま幻想だと思うのですが。

いちこ:私もそのようなものだと思います。だから彼女が待っていたのは結局のところクベルコ・ボンディなんだろうな。だからやっぱりフィリップについては打算ですよ(笑)

さやか:打算で「いけそう」となるのは、性的行為ですか。もう少し継続的な色恋ですか。全人格的な愛ですか。それとも、パートナーシップですか。

いちこ:自分を求める人としてかな。性的にでもいいですが。

さやか:「にでもいい」というのがわからない。「性的に」ならわかる。えっと、えっと……ごめんなさい、私たぶんそこがわかってないんだ。

いちこ:たとえば望み通りフィリップから性的に求められたとしたら、シェリルは次に、自分を好きって言ってほしくなると思うんです。

さやか:好きになって好きって言って、それで向こうからも好きって返ってこなかったら、残念だなーって感じるでしょうけれども。

いちこ:あの時点でシェリルが欲しかったのは承認なので、自分が言うのではなく、フィリップに好きだと言わせたがるんじゃないかな。マウントを取りたいというか……。

さやか:ええっ、勝ち負けなの?!

いちこ:(笑)

さやか:好きになったらむしろ勝ちなのでは?「好きー!」ってなる自分、とてもナイスじゃないですか。

いちこ:フィリップの時点では、そういうふうに思えなかったけど、クリーの時にようやくそう思えるようになってきたんじゃないかな。

さやか:クリーに対する感情はすっごくよくわかります。あれが恋です。

いちこ:陳腐な言い方をすれば、シェリルにとってはクリーが初恋なんですよ。つまりフィリップは彼女にとっては紀元前のできごとで。

さやか:いちこさんすげえこと言うなあ。

いちこ:『勝手にふるえてろ』を見たって(twitterに)書かれてましたよね。

さやか:Blu-rayで見て、原作を読みました。映画の主人公の行動原理があまりにわからなくて小説を読んだんですよね。いや、映画としてはすごくよかったんですよ。

いちこ:私は年始に『勝手にふるえてろ』を映画館で観て、もう、こんなに泣くことがあるんだろうかっていうくらい号泣したんですけど。

さやか:すみません、そんな映画を私は自宅で隣の友だちにコメントしまくりながら観てました。なんで泣いたのですか。

いちこ:身に覚えがあるからです(笑)あの話で、主人公のヨシカは、言ってみれば現状を「ステータス:長い片思い」と自分をラベリングすることで思考停止しているじゃないですか。

さやか:停止するというのは、その、他者との関係について?

いちこ:無駄なコンセントを抜いている感じ。そして、『勝手にふるえてろ』の主人公にとって、ニくんとの色恋は、当初打算だったと思うんですよ。自分の価値を担保するための。

さやか:いちこさん今日打算って五回言ったよ?

いちこ:(笑)

さやか:えっ、つまり、フィリップは、二なの?

いちこ:当初フィリップだったものが変化していったという話だと思うんですよね、『勝手にふるえてろ』は。

さやか:なんということだ。

いちこ:でも、映画と小説ではまた少しイメージが違うから断言はできない……。

さやか:私は、映画(『勝手にふるえてろ』)を観たときには、恋がどうこうという以前に他者とのコミュニケーションを拒絶することを自らに課している女性という印象を受けました。主人公のヨシカちゃんは「絶滅した動物が好き」。コミュニケーションを取れないものだけが好きなんだと思っていたんですね。だから私は彼女が好きな男の子であるイチと会うための同窓会を開こうとする場面で「えっ」って。「この子何言ってるの」って。会う機会がないからこそ好きだったんでしょ?って。そういう指向なんだと思っていました。

いちこ:私は、あの同窓会を開いたのは二にモテたから、スーパーマリオのスター状態みたいな、今ならいける、という勢いだったんだと思います。でも不安だから自分の名前で招集をかけたりはしないんですよね。呼ばれて行く立場を作る。

さやか:私、同窓会のくだりまでは、もう完全に釣りのおじさんの気分で観てました。「ヨシカちゃん、モテちゃったの?でもほかに好きな男いるよね?どっちにするか迷う?いいじゃなーい、ゆっくり迷いなよー」みたいな。

いちこ:(笑)

さやか:でもヨシカちゃんは、実際には誰とも話していないんですよね。釣り人とも、コンビニのお兄さんとも、カフェの女の子とも、バスで隣に座る婦人とも。彼女は、ほんとはいつも閉じた世界にいる。『最初の悪い男』の主人公の冒頭の、若いバージョンのように。

いちこ:そうなんですよ。その世界が壊れちゃう場面で、めちゃくちゃ号泣しました。

さやか:私が似た場面で号泣したのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で、失明しかけた女性が歌って踊るんですよね。あれがつまりフィクションの役割だと思うんです。過酷な現実から自分を守るためにフィクションをやる。やらないと死んでしまうから。私はそう思って、べろべろに泣いたの。でも、『勝手にふるえてろ』ではいっこも泣かなかったです。

いちこ:イチくんがヨシカちゃんの名前を覚えていなかったっていう場面があるでしょう。

さやか:二、三回しゃべったくらいの中学校のクラスメートの名前とか覚えてるわけないじゃんねえ。

いちこ:あの子にとっては、自分とイチくんの関係というのは特別なものだったんですよ。だから名前を覚えていないことにショックを受ける。

さやか:客観性とかないの?

いちこ:ないない。だって、十年間煮詰めてきたんだもの。

さやか:いちこさん、すごい、めっちゃわかってる。

いちこ:だから、クベルコ・ボンディはイチくん的なものだと思うんですよね。アンモナイトを抱いてイチくんと自分のつながりのシーンにダイブするのがあの子の日常で、だからイチくんと自分のつながりは強固なものだと信じている。シェリルにとってのクベルコ・ボンディもそんな存在なんじゃないかな。

さやか:でもそれは他人には関係ないことだよね。

いちこ:そう、だからイチ君はヨシカの名前は覚えていないんだよね……。第三者から見たら、イチくんは「でも押せばいけるんじゃないの」ってなりますよね?

さやか:いけるいける。あのベランダの場面、私なら「えー、私の名前覚えてなかったのー。私はきみの名前覚えてるよ。一宮なんとかくんでしょ?漢字で書けるよ」って言う。

いちこ:そんなこと言える子だったらあんなことにはなっていない(笑)

さやか:そこまでずうずうしくは言わないかもわからないけど、もうちょっとどうにかならないの。

いちこ:あの子にとっては、これから先「いける」ということより、今まで自分を覚えていなかったことのほうが重要だったんですよね。十年間、その人の存在を自分の中に置いていた、その十年間の腰を折る場面なんです、あれは。ここから先どうにかなりたいというつもりではなく、この十年を肯定してくれというつもりで会ってたと思うんですよ。

さやか:ごめん、ちっともわからない。

いちこ:(笑)。クベルコ・ボンディもそういうものなんじゃないかなと。

さやか:つまり、その先に何かを欲望するものではないということ?

いちこ:過去を肯定するものだということ。

さやか:『最初の悪い男』の後半で、クリーの子どもがやってくるじゃないですか。子どもができた経緯はろくでもないけど、でもその結果として産まれてきた子には何の色もついていなくて、幸い、生きている。そして自分はたまたま、その子どもの養育者になれる立場にいる。私だったらその未来には乗ります。自分の人生にやってきてくれたんだって思う。

いちこ:うん、私も乗りたい。でも、あのクリーの赤ちゃんは厳密に言えばクベルコ・ボンディではないですよね。

さやか:シェリルはむりやりクベルコ・ボンディだということにしようとするけど。

いちこ:ほんとうはそうではない。何というか『勝手にふるえてろ』のイチくんが名前を覚えていなくてがっかりした場面は、高飛びの練習をしていてやっと出た試合でエントリーされていたのが幅跳びだったという話ではないかな。

さやか:私さあ、ヨシカちゃんがなんだかずーっと怒ってるの、不思議でしょうがなかったんだよね。種目が違うから怒ってたのかあ。『最初の悪い男』のシェリルのヒステリー球にも怒りの気配があって、私にはそれが解釈できなくて、さみしいのかなと思っていた。閉じた世界が好きで、でも閉じすぎてさみしくなったんだと。あと女性が生きていく上での社会の理不尽さにも怒っているのかなと思っていた。でもたぶんそれだけじゃないんですよね。彼女たちはすごく怒っているんだけど、その本質が私には見えていなかった。

いちこ:『最初の悪い男』のフィリップも、『勝手にふるえてろ』のイチくんも、主人公に怒られる筋合いはないんですよね。ヨシカの片思いも、いつの間にかイチくんに恋をしているというポジションを得ることこそが目的になっていたと思うし。

さやか:その「ポジション」っていうのがたぶん私にはわからないんですよね。だから私はだめなんですよ。

いちこ:フィクションではしばしば「恋をしていなければ」という強迫観念が描かれますよね。そういうイメージです。

さやか:私は「恋愛市場」って、一対一の戦闘でどれだけ強いかみたいな話だと思ってました。ドラゴンボールの天下一武道会で勝つぞみたいな。

いちこ:天下一武道会に出ることになったら周囲の人に「修行しろ」って言われるだろうけど、「ステータス:片思い中」というポジジョンをとることで出場しない言い訳になるというか。アイデンティティの構成要素になっているんじゃないかと。

さやか:待って。アイデンティティは周囲の人と会話する段階でできているものではないですか。もちろんアイデンティティは他者との関係によっても形成されますが、それ以前に自己との対話が。

いちこ:自己との会話の中で、「私はこういう人生が送りたいから、そろそろこうしよう」と思い描く。

さやか:こういう仕事がしたいからこういう学校に行こう、就職活動はこういう戦略でしよう、そろそろ転職しよう、何歳くらいまでに結婚したいからこうしよう、パートナーにはこれをしてほしいと伝えよう、いくつまでに子どもが欲しいからこうしよう……

いちこ:自己との対話の中でそういう細かいことを考える。でもそういうのってたいへんですよね。

さやか:たいへんです。

いちこ:ヨシカちゃんは「私は今、イチくんに片思いをしている。それがどうにかならないかぎりこの先のことは考えられません」ってことにして、一時停止してたんだと思うんです。つまり、先のことを考えないために片思いをしていたところもある。

さやか:今の話を聞いてはじめて『勝手にふるえてろ』の筋書きがわかりました。『最初の悪い男』でも、私は、ああいう閉じた生活が好きで堅牢な様式を整えていた女性が、それでは満たされなくなって、世界に向けての突破口を探す話なんだと思っていたけど、閉じた生活自体が何かの防衛であったというふうにも考えられるわけですか。

いちこ:それはたぶんほんの少しの違いなんですよね。シェリルのフィリップに対する感情を、突破口を求めてのものととらえるか、「自分を好きな人間さえいたらどうにかなる」という打算ととらえるか……

さやか:どうにかなる……らんぼうだ……

いちこ:しかしクリーがやってきて、ジャック(子ども)と出会って、主人公は打算ではない感情を学習するんですよね。そういう話なんだと思いました。

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