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津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』  引きこもりの皮膚

 引きこもりを対象とする実験の被験者になったことがある。条件は「一ヶ月以上の期間、自宅からほぼ出ず(食料品や日用品の買い物は可)、他人と対面で話さない(同居家族との会話は可)経験がある人」であった。一ヶ月程度引きこもったところで「引きこもり」とは言わないが、何年も引きこもっているとそもそも実験協力にも応じないので、そのあたりが落としどころだったのだと想像する。

 私はもちろん一ヶ月以上ひきこもったことがある。実験者は「あなたはあるでしょ。顔みたらわかる。あと同類のお友だちがいたら紹介して」と言った。顔みたらわかるのかよ。そう思って親しい人々の顔を見ると、どうも引きこもったことがあるように思える。何人かに声をかけると、全員が「ある」と即答した。

 そんなだから私は、人類の多くは引きこもるものだと思っている。類は友を呼ぶというバイアスを考慮しても半分くらいは引きこもると思う。一ヶ月とか半年とか、人によっては一年くらい必要じゃないかと、そういう気がする。一年以上になると、たぶん当人にとっての害のほうが大きくなるし、専門医が必要な疾患を持っている可能性もあるから、第三者が介入したほうがいいと思うんだけれど。

 『ヒッキーヒッキーシェイク』は引きこもりたちが家族以外の第三者と出会い、第三者の手引きによって自分と共通点のある別の他者とインターネット越しに出会い、ともにミッションを遂行して、それによって何らかの手がかりを見つけて外の世界に出かけてそれぞれが何か美しいものを見つけるという、そういう話である。

 人がなぜ引きこもるかといえば、皮膚が薄いからである。精神の皮膚がごく薄くて、ところどころで血肉がむきだしになっていて、そのまま世界に出るとぐじゃぐじゃになってしまう、だから引きこもるのである。思春期の精神の皮膚が薄いのは大人になるための副作用みたいなものだし、大人であっても自分の特性と折り合いがつかなかったり大きく傷つくできごとがあったりすると皮膚は薄くなる。二十歳すぎたら誰もが十全に大人になれるわけでもない。

 だから本書の主人公格である三人の引きこもりたちは(あるいは私や、引きこもった経験のある友人たちは)安全な部屋に引きこもる。そのとき私たちの外側はびっしりと棘の生えたいばらの山になる。それをはだしで踏み、それを手でかきわけ、すべての皮膚に傷をつけなければ、私たちは「外に出る」ことができない。あまりにも痛いし、いばらは無限に続いているように見える。もしもこれが人生なら、と私たちは思う。人生に向いていない。

 本書の三人の引きこもりたちが(あるいは私や、引きこもった経験のある友人たちが)外に出ることができたのはたまたまその程度の期間で皮膚を強くすることができたからである。あるいはどれほど痛くても歩ける足やいくつ棘が刺さっても見える眼球をそなえていたからである。どうしてできたのか? たまたまだ。私はそう思う。たまたまで、だからいま引きこもっている人に「私はやった、おまえもやれ」とは言えない。私のいばらは私のもの、彼らのいばらは彼らのものである。私だって「いばらなんか見たことない、怠けて外に出なかったんでしょ」とか言われたらものすごく腹が立つし、そんなこと言うやつとはぜったい友だちになりたくないと思う。

 本書には、何十年にわたって外出しないであろう引きこもりも登場する。うちひとりは肉体が外に出ないだけでインターネットがあればスーパースターである。この人物は技術を通じた自己顕示をおこなう以外のコミュニケーションを取らなかった(精神も引きこもっていた)が、三人の引きこもりとコミュニケーションをとるようになる(肉体は引きこもりのまま、精神が引きこもらなくなる)。この人物は引きこもりが見る夢、あたう限りの明るい夢である。あとの一人は誰ともコミュニケーションが成立しない。身内が全力で養っている。この「身内」はありとあらゆる手段でカネを稼いで引きこもりをやしなおうとする。これもまた、引きこもりが見る夢だ。薄暗くぬるりとした夢である。

 私たちは引きこもりの夢をかなえることはできない。でも他者がいばらをかきわけて触れた世界の、いばらのない部分になることはできる。私はそのように思う。だから本書の引きこもりたちが仲間と出会う展開を「ご都合主義の幻想だ」と言いたくない。だって、私は、引きこもったことのある私は、他者と出会ったのだもの。小説のキャラクターのようにわかりやすい技能があるのではなくても、ちゃんと他者と出会って、助け合うことができたのだもの。

 ところで、本書には何か見覚えのある場面や展開がいくつも見られる。それが快いような気もするし、気持ち悪いような気もする。日本人が気軽に活字の大量の小説を消費するようになって百年弱、私たちのまわりには物語があふれている。私たちが私たちの物語を語るとき、既存の物語の類型を切り貼りする作業から逃れることはおそらくできない。より多くの人にフィットする物語は、より多くの切り貼りをした物語である。本書はおそらく多くの人にフィットするように作られている。私は本書のところどころに、着ぐるみに感じるような居心地の悪さ、借り物に陶酔する精神の薄気味悪さを感じる。作者はたぶん、確信犯だと思う。だって、こんなモノローグがある。「不気味の谷は、物語にも生じるのではないか」。

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