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もう一人の自分を創作する、そして世界と和解する 舞台『キンキーブーツ』

 ひらひらした衣装にスパンコールやラメを散らして脚もあらわに歌ったり踊ったりする人が好きだ。映画でいうと『ムーラン・ルージュ』とか『シカゴ』とか、そういうやつ。私は、女にも男にもそのいずれでもない人にもひらひらした服を着てガツンガツンに自分を見せつけてほしい。私が落ち込んだときには友人が男性ストリップ映画『マジック・マイク XXL』のBlu-rayを送ってくれる(最高)。それを観て薄ぼんやりと「マジックマイクは完璧だけど、私としては、脱ぐ以外の方向性もほしいんだよな」と思う。女性が着飾って舞うショーはたくさんあるけれど、私は、男性ないし男性的身体にもきらびやかな格好をしてほしい。だって、美しいから。

 そんなわけでここ一、二年ほどドラァグ・クイーン文化をチェックしている。超ざっくり説明すると、主に男性同性愛者がドレスを着てハイヒールを履いて踊ったりしゃべったりするものである。彼らは、女になりたいのではなくって、(多くは)男のままで過剰な女の格好をして、人格やセンスもふくめた新しい名前を、自分につける。女は、彼ら自身ではなくて、彼らの性的欲望の対象でもなくて、だから彼らの、ついに手に入らなかった何かを具現化してみせる形式なのだ。この図式を理解した段階で私は泣いてしまう。フィクションを作る人間は、そうしなければ生きていられないから作るのだ。あまりに損なわれていて、あるいはあまりに飢えていて、世界と折り合いがつかなくて、でも生きていたいから、だから虚構を作るのだ。そのしくみごと身体を使ってザッツエンタテイメントなショーにするなんて、恐ろしいことである(脚注1)。

 本作『キンキーブーツ』はそのようなドラァグ・クイーンが登場するミュージカルだ。紳士靴メーカーの跡取りで異性愛者男性という、これ以上ないくらいのマジョリティ・オブ・マジョリティの主人公チャーリーが、もうひとりの主人公であるドラァグ・クイーンのローラと出会い、ローラのような「女装大好き男」たちが男性の体重をかけて激しく踊っても壊れない特別な靴を製造し、その過程で自分とは異なる者たちや自分自身と和解するという、そういう筋立てである。

 私は熱心なミュージカルファンではない。熱心なストレートプレイのファンでもない。二十数年のあいだ舞台を観ていて、ひいき目というものを持ったことがない。歌が下手だと「下手だな」と思う。ミュージカルは踊りながら歌うから音程が外れてもしかたないのに「外れている」と思う。役者が熱情にまかせてせりふを叫ぶと「うるせえな」と思う。つぶやいている場面ではほんとうにつぶやいている口調と声音でないと「下手な役者だ」と思う。ダンスには詳しくない。詳しくないだけ、ただ踊っているだけの人を観る動機がない。そんな面倒な観客にとっても、本作は、よかった。私はニューヨーク版の『キンキーブーツ』を観ていて、だから比較もする(脚注2)。それでもなお、よかった。

 ローラは元ボクサーだ。プロボクサーである父親から男性的男性であることを期待され、「強くなったら世界とうまくやれる」と思って、それで強くなる。でもドレスを着たい。ひらひらしてキラキラしてカラフルでありたい。それでドラァグ・クイーンのショーガールになる。チャーリーは男性的男性であることに抵抗がなく、悩みは自分がやりたいことがわからないという、これまたメジャーな劣等感で、彼女をつくって親の会社を継いで街中でからまれている女性を助ける。だってチャーリーは「男」だから。でも助けた相手はローラだった。チャーリーよりぜんぜん強いし、なんなら男である。

 三浦春馬演じるローラはその屈折とみじめさの裏返しであるパワーや陽気さや機知を体現している。出てきたときからもうスターだ。全身で視線を奪う。スターだ。スターはどうしてスターになるのか。本作における回答は「スターにならなければ生きていられないほどに世界とうまくいかなかったから」だ。だからドラァグ・クイーンというものはみな過剰で、飢えていて、さみしいのだ。三浦春馬はドラァグ・クイーンではないのに、それをやってみせる。過剰な、飢えた者のダンス、過剰な、さみしい者の歌、その怯え、その震える小さな声、ドレスに似合わないとされているくっきり発達した上腕、影のできる大きな背筋。

 チャーリーは、いつもマジョリティだから、みっともないことががまんできない。笑い者になりたくない。でも笑い者である「女装大好き男」を理解する。だって彼はみっともなさを許せないために「やりたいことがない」という現代的な悩みを持って、それを自覚するくらいかしこかったから。ローラに比べたら舞台の上では不利な役どころだ。でも小池徹平演じるチャーリーはぜんぜん地味じゃない。あんなにキュートな顔だちの小さくて華奢な役者が典型的マジョリティ男性をやるだけで実はかなり大変なことなのに、その特性を裏返してマスキュリニティの解毒剤にした。チャーリーはずっと与えられてきた。それなのに与え返すことができなかった。それで「もう何も与えないで。また台無しにしてしまうから」と言う。みっともない。かわいそう。美しい。

 本作はどうかすると女性たちを舞台装置にしかねない。「男たるもの」を解毒するのが主なテーマだからだ。だから女であるような登場人物が舞台装置でもがまんしようと思って観た。でも、がまんする必要はなかった。あの脇役を演じた役者たちは、どういう種類の魔法を使ったのか。誰ひとりとして派手に美しい女を演じていなかった。それなのに彼女たちはキラキラでギラギラの「クイーン」だった。

 私はこのところ朝の身支度の時間、『ルポールのドラァグ・レース』というNetflixの番組を流している。私はほんとうは服を着るのも面倒で、できればじゃがいもとかコーヒーとか入れる袋みたいなのをかぶって、暑くなったら水を浴びて暮らしたい。でもそういうわけにはいかない。それでドラァグ・クイーンたちが着飾るNetflixの番組を横目で見て「美しくしましょう」と思う。「私が美しいと世界はハッピーだからね」と思う。

 その番組にはたくさんのドラァグ・クイーンが出てくる。たとえば鬱をわずらったことのあるクイーンが「(ドラァグ・ネームの)わたしは末期躁病患者みたいなものよ」と言う。つまり、そういうことなのだ。そうせざるをえないから、もうひとりの自分を作る。クイーンたちは言う。わたしは美しいの。わたしはおもしろいの。わたしはいつも笑っているの。わたしは機知に富んで、いやなやつをことばでノックアウトしてやるの。わたしはいろんなことができるの。ねえ、わたしを見なさいよ(脚注3)。

 本作『キンキーブーツ』の主人公であるローラは、ボクシングの試合に白いパーティドレスを着て登場する。そしてそれに激怒した親から勘当される。この場面は舞台では演じられない。ローラがせりふで過去を回想するだけだ。私はこのまぼろしの場面がほんとうに好きだ。私にとって、創作というのは、つまりそういうものだからだ。与えられなかったものを虚構でもってまかなうこと。それをもって世界と和解しつづけること。みっともなくて可笑しくて可哀想で、そしてとても、美しいこと。

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脚注1
 自分の身体というままならないもの(持って生まれた身体に不満を持ったことがない人があるか?)を自分の欠落からくる理想の姿に力業で接続するのがドラァグである。だから彼らはふだんの男の姿でもドラァグ・ネームを名乗り、語る。肉体と世界を接続する芸事であるから、ファッションは彼らの主要な表現手段のひとつであって、ハイファッションからサブカルチャー的なコスプレまで、さまざまな衣装を手作りする。本作『キンキーブーツ』は衣服より製作が困難な靴を使って個人の特性と世界との和解を描いていて、だから物語の背骨がとても太い。
 なお、こうした精神的な図式はドラァグ・クイーンたち自身、あるいは『キンキーブーツ』制作陣が明言しているのではない。私の妄言である。

脚注2
 ニューヨーク版『キンキーブーツ』と日本版を比較すると、脚本上の差異はほぼない。演出上の差はかなりある。ニューヨーク版はアメリカで制作されているから、多様性を役者の配置でも表現することができて、たとえば人種や体格のバラエティが大きい。筋肉や脂肪も大きくつくから、舞台で遠目に見てもわかりやすい。日本版ではその点が不利なのだけれど、ライティングや衣装で体格の表現をおぎない、あるいは逆手に取って、全体に細身で骨格や身長のレンジが少ない役者陣をもってニューヨーク版に遜色のない舞台に仕上げた。演出上の差はそのためのものだろう。
 また、本作のハイライトのひとつであるトレッドミル(ベルトコンベア)を使ったダンスはニューヨーク版のほうが明らかに迫力があり、完成度が高い。ダンスの技量のほか、安全上の基準が日本のほうが厳しいためでもあるだろう。ニューヨーク版は一歩間違えれば役者が大けがをしかねない。たかが一万円程度の支払いでそのような舞台を観るのが正しいかどうかは私にはまだ判断できない。

脚注3
 「ねえ、わたしを見なさいよ」はドラァグ・クイーン本人が作詞してミュージック・ビデオを撮影する場面で使われた歌詞の引用。『ルポールのドラァグ・レース』season10より。
 

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