集団というものについて考えた

(最初は、正しさの話から連想的に思考していたつもりが、最終的に集団の話になったのでタイトルを以上の通り名付けた。)

本質的に絶対的な正義があるとは思ってはいないが、単純に誰かが暴力を振るわれたりする状況は面白くない。
さらに暴力が論理によって「正当化」された上に、流通する状況を目の当たりにすれば感情として苛々する。
なので暴力を正当化する論理を見ると、その論理をその論理に内在した原理で無効化するという事をしたくなり、実際にそのような論理を構成したり言語化する機会が多かった。

特に、その論理に内在した形で明確に矛盾しているにも関わらず「正当化」がなされている場合は余計に苛立ちを覚える(根が深いのは矛盾していない論理かもしれないが、浅いレベルで破綻した論理構成で暴力を正当化される方が不快感が強い)。

「わざわざ正当化がなされた」暴力の論理に対しては、それを無効化する論理を構成することは可能である。そのためにある程度の言論コストを支払うことは、そこまでの苦ではない。

それに対して根本的に正当化やルールを持つ生き方から超越した所にある人が相手の場合、つまり正当化をせず、他者に何らかのルールの制約も課さず、ただひたすら行動するだけの人が相手なら、論理を否定するということは原理的に出来ない(論理によって正当化してないから)。
そういう人とは現実の利害関係で関わり、行動に干渉するには利害関係を一致させるか、具体的な制度や法律の力を利用することしか出来ないだろう。
そのような人への「批判」は、批判としての意味は基本的にあまりない(周りの人へ向けた"パフォーマンス"としてなら意味があるだろう)。
ただし、そのような人は稀有なので、日常生活ではあまり見かけない(ある意味で赤ん坊などは、この定義に当てはまるだろう)。

大半の人はそもそも一定の価値観で論理や行為を正当化して生きるし、社会的なルールは言語によって形式化されるので、言語でその正当性を無効化することもできる。
ただ面倒なのは、ルールについて言及すると無限にルールが自己増殖し、それに自分が制約される流れがあることだ。ルールに言及しルールを利用することで、本質的に信じていない正しさの世界に引き込ずられる。自分にとって暴力よりはマシではあるけれど、「正しさ」への違和感は常にある。

そもそも本質的に正しさというのは、個人の中に絶対的なものとして存在するものではなくて、『他者と感情や様式を共有しよう/させようとする、言語的に形式化された運動』の一つなのだろう。
他者との折り合いをつけることが難しい者には使いこなしにくい。

ただし他者との関係に何の秩序も制約も無いことが自由を生むかというとそれも違っていて、制約こそが可能にする物事も多く、それにより実現される自由もまたある。
そして当然のことだが、その制約に直接的に疎外された者にとっては制度そのものが暴力的なものになる場合もある。
制度によって得られるものと奪われるものの内容とその配分が、個々の人にとって許容できるとは限らない。

暴力を減らすために全体を俯瞰して暴力の最小化を図る視点から制度について考える必要があるが、「全体」を主体として強調してしまうとそれはかえって個人への暴力を強める事に繋がり当初の前提を覆す。

そもそもどのようにすれば暴力を最小化出来るのかという問いをつき詰めるためには、暴力とは何かを定義する必要が生じる。明確な基準を作ろうとすれば、生命の維持を損ねる=殺すことを最大の禁止事項としやすいだろう。死は人間の力では最も取り返しがつかない出来事であり、そして苦痛は他者からは肉眼では明確な形で観測出来ず定義も難しいが、肉体の損壊や生命活動の停止はそれよりも容易に明確な定義を与えられる。

しかし生命を維持することが至上目的にされ極度の苦痛を与え続けられたままの状況を想定すると、多くの人の感覚としては許容し難いだろう。人が生きるには、ただ生命活動の維持だけではなく、幸福(その内実は個人によって何であれ)やその基盤となる自由が必要になる。

こうして制度の問題は、暴力の最小化から幸福や自由の問題へと接続する(あるいは、これらは全て最初から一つの全体としてセットになっている問題系であった)。
個人の幸福や自由を追求することが重要であるなら、自分の利益にならない全体のための制度や規範にコストをかける必要があるのか。それは個人に自己犠牲を強いることではないのか。
ここで、個人を生かすための、全体を維持するための、制度を肯定することに、一つの矛盾が生じる。

そこでこの隘路をそのまま進まず、いったん視点をずらしてみる。
制度をより良い形に変えることで「自分も」「他者も」より多くを受け取れるというイメージを持てること、そして、「自分が受け取ったものを他者にも与えたい」という感情が自然で自発的なものとして生じれば、制度をより柔軟に変えるために犠牲を強いるべき、という原理は不要になる。

そのためには、「私は(良いものを)与えられて受け取った」という感覚の経験が少なくとも前提として必要になる。その後にさらに「与えたい」という感覚がある程度形になるには、「与えることで受け取れた」という経験が必要だろう。
そのような経験を積み重ね、そのような生き方を自然にする人が、制度を変えて行ったらどうなるだろうか。

少なくとも、自己犠牲や隷属ではなく、相互に与え受け取るといった感覚の中で制度や自分を変化させ続ける経験をしている人たちにおいては、当初に設定した問題系の隘路とはまた違った全体の流れが成立しうる。

(ただし、これを言語による原理として示すのは容易だが、言語化することと実現することには大きな隔たりがある。)

(洗脳や単なるマイノリティの抑圧との区別をどう設定するかという問題が残っている)

(このような全体の系は、相互に矛盾するものではなく、重なり合うものとして理解できるかもしれない)


結論のためではなく、ただ思考を続けてここまで来て、そして結論のないまま思考が続きそうなので、ここで一区切りつけることにする。

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