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頭の中の絵本と実態の絵本

先日、長いこと探していた絵本を見つけることができた。それもこれもnoteで教えてくださった方々のおかげである。本のタイトルをズバリと言い当ててくださった方、絵本を探してくれた方、記事を読んでくださった方、皆さま本当にありがとうございました。

で、早速図書館からお目当ての三冊を借りてきました。

懐かしい……。

どの本もすごく懐かしい。そして良い絵本だ。幼いころの私よ、あんたいいセンスしてるじゃないか。楽しくてほがらかな、あたたかくてうっとりするような、読んでてやわらかい気持ちになる良い絵本ばかりだったよ。見つかってほんとによかったなあ、おい。

ただ、ちょっと驚いたのは、読む前まで頭の中にあった「思い出の絵本」と、久しぶりに読んだ「実際の絵本」の内容がかなり異なっていたことでして。
記憶ってこんな簡単に変化しちゃうもんなのかと、まるで”記憶の改ざん”というSF小説とかではよく見かけることを自身で体験したかのような気分になれました。なんかあれ思い出したな、押井版の『攻殻機動隊』で、家族の記憶が偽物だったことが判明して写真を見ながら涙を流すおじさんのことを。

「私のあたまの中にロボットと共にいたあのおじいさんは存在しなかった……?」

そんな形容しづらい切実な気持ちに。
時間が経つということは、記憶をぽろぽろとどこかに落とし、薄れた記憶を自分の都合のいいように書き換えてしまうことなのか。
ハックしております。
私はセルフで脳をハックしております。

絵本が見つかるまで、『ながれ星のよるに』に出てくる登場人物を私は「おじいさんとロボット」だと思っておりました。しかし、見つかった絵本の表紙を見るとそこに描かれていたのは「”しゃべるリンゴの木”とロボット」だったのです。
「ボートで星の海を渡る」シーンは存在せず、実際にあったのは「”クジラに乗って海を渡る”ロボットとリンゴの木」。
絵本の良さ、それは読むほどにしみじみと私の胸に広がって行きます。しかしそれ以上に、自分の記憶がいかにあいまいなものだったのかを、そして、絵を見ることで徐々に記憶が”正しく”修正されていく体験が、おもしろくもちょっと衝撃的でした。

『まじょのかんづめ』にしても似たようなもので、
×「森を探検する」
〇「魔女の家を探索する」
でしたし、
×「怪物に遭遇する」
〇「魔女に遭遇する」
でした。
まあこれは『ながれ星のよるに』に比べるとまだマシと言えるでしょう。

というか『まじょのかんづめ』に関しては、「魔女」がぜんぜん恐くなくてそっちの方がちと驚いた。子どものころの記憶ではもっと怖かったはずなんだけどなあ。いま見るとすごくひょうきんで、なんならかわいいおばあちゃんくらいの印象に変わっていて、これも不思議だった。
あとこの絵本、オチのぶん投げ感すごいな。
なんか打ち切り感あってジワジワくるぞ。

『パパ、お月さまとって!』については、そもそも思い出せることがほとんど無かった状態で読んだので、「あ〜、こんなんだったなあ」と単純に懐かしい気持ちにひたれました。
この絵本、お月さまの「高さ」を表現するためにページが"上"に開けるようになっていたり、お月さまの「大きさ」を表すために開くと大きく"展開"するページがあったりと、ユニークな仕掛けがたくさん盛り込まれていて楽しいです。
いやでもそれより、お父ちゃんが娘のためにマジでお月さまを取ってくるからそっちの方がびっくりです。しかもその方法が手づかみって、ちょっとアクロバティックすぎませんか。

閑話休題。

年を取るということは、こういうことが増えてくるということで、おそらく(というか間違いなく)絵本に限らず色んなところで同様の事態は起こっているのでしょう。作品の内容とか、人の顔とか、むかし住んでいた場所の地形とか、大切な人との記憶とか、作品に限らず、頭の中にあるこの思い出も、自分の中で適当に書き換えられたものなのかもしれない。

だが、待て。事態はむしろ"逆"ということは無いだろうか。私の記憶に齟齬があるのではなく、この世界の方が「おじいさん→しゃべるリンゴの木」という世界線に書き換えられたという可能性が。(あるわけない)
だとしたら、『ながれ星のよる』にいたはずのおじいさんも、『まじょのかんづめ』にいたはずの怪物も、本当はいたということに……。
これは……思わず世界の秘密に気づいてしまったのかもしれないぞ……。

と、与太話はこれくらいにして、久しぶりに懐かしい絵本を読めて本当によかったです。改めて皆さまありがとうございました。
なんだか楽しかったので、他にも思い出したい絵本がないかなあと、変な悩みを抱えている今日この頃です。

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