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【ドラマ感想】罪の意識について『THE LAST OF US』

※ネタバレありの感想です。

 原作のゲーム『The Last of Us』は2013年に発売されたゲームで、私が意識して遊んだ初めての海外ゲームだった。その頃の私にとって「洋ゲー」とは、マッチョな男が街中で好き放題暴れてヒャッハーするというもので、「ドラクエ」や「ファイナルファンタジー」といった剣と魔法の世界に慣れ親しんだ身にとっては中々食指が動かない遠い存在だった。とはいえ各所での高評価を見るたびに自分のなかのオタクアンテナが「これはやっとけ」とささやき、どれいっちょやってみるかと重い腰を上げたのが『The Last of Us』との10年にわたる長い付き合いの始まりだった。

 アメリカで発生したパンデミックにより世界はゾンビウイルスに汚染されていた。かつて愛娘を失ったジョエルは、とある事件をきっかけにエリーという14歳の少女と旅をすることになる――。

『The Last of Us』の設定は、ドラマ版でもゲーム版でもおおよそ以上のようなものだ。
「ゾンビもの」あるいは「ポストアプカリス」としてはさほど目新しいものでは無く、ゲームのディレクターであるニール・ドラッグマンが語っているとおり、『ザ・ロード』『ウォーキング・デッド』『トゥモロー・ワールド』といった作品からの影響が色濃く出たストーリーとなっている。
ではゲーム版の特質した魅力とはなにか。なぜこのゲームは世界的に高い評価を集めたのか。それはゲームという特性を活かした「体験」にあると思う。
「映画のようなゲーム」とはプレイステーションが発売された1990年代には使われていた言葉であり、実写と見紛うほどのクオリティで作られたゲームが存在している現在では陳腐化した言葉だ。だが、上記した各メディアの名作から換骨奪胎した物語、荒涼とした世界を表現したアートデザイン、それらを高い水準でゲームに落とし込んだテクノロジーは、自らが“動かす”ことで死と隣り合わせの物語を体験できる、ゲームというメディアだからこそのナラティブを持っていた。

 文明が崩壊した後の荒涼とした景色を旅を通して感じる快感や、その世界に生きる多種多様な登場人物たちの物語は「ドラマ版」の魅力としてそのまま活かされている。特に主演ふたりのペドロ・パスカルとベラ・ラムジーの演技は素晴らしい。観始める前はふたりともジョエルやエリーにあまり似てないな~と思っていたのだが、回を追うごとにこのふたりを起用してくれた偉い人ありがとう!と感謝したい気分になった。『The Last of Us』の世界観はゾンビウイルスが蔓延した“20年後”という設定だ。そのためジョエルはもちろん、エリーも「いつ死ぬかわからない」世界で長く生きてきたことになる。この感覚の違いを主演のふたりはしっかりと汲み取っており、ジョエル役のペドロ・パスカルは裏世界で生きてきた男の貫禄と人生に疲れた雰囲気を、エリー役のベラ・ラムジーはパンデミック後の世界しか知らない世代の天真爛漫さと冷徹さを、ヒリヒリとした雰囲気の中にしっかりと体現しており、ゲームを何周もした私でも安心してのめり込むことができた。また、ゲームで旅した風景の再現度はすさまじく、「あれ、本当に存在したの…?」と思わされるほどだ。

 しかし、おおむね文句のつけようも無い完成度でゲームの世界を再現していたこのドラマにおいて、観始める前から気になっていた点がある。それはインタラクティブなメディアであるところのゲームだからこそ生まれる「罪の意識」についてだ。

 一瞬の気の緩みによって容赦なくゲームオーバーとなり、「やり直す」ことを強要されるゲームとは違い、「ドラマ」とは1話ごとに区切られた物語を追いかけるリニアなメディアだ。つまり、そこに視聴者が介入することはできない。通常、一般的なゲームでは主人公=プレイヤーとなるため、双方向の体験で形成される。この点でゲームには他のメディアでは味わえない没入感があり、それによってジョエルがエリーに抱く「父性」や「絆」はプレイヤーの心情そのものと同期することとなる。この部分をドラマではどのように表現し、カバーするのか、それが私にとっての気がかりだった点であり、本作ドラマ版の成功の鍵だった気がする。

 ここで考えたいのはドラマ版でも製作に関わったニール・ドラッグマンが『The Last of Us』という物語でいったい何を伝えようとしたのか、ということだ。
 そもそもの話、リソースや制作時間が限られたゲームの中にいちいちすべての反応を用意することは不可能で、必然的に「敵」とは人間では無く、一種の「アイコン」として生成され、存在することとなる。『The Last of Us』に限らずあらゆるゲームの問題点はそこにあり、「敵=アイコン」となった時点でプレイヤーに罪の意識はもはや無く、ゲームクリアのための「障害物」くらいの認識となるだろう。そうして躊躇無くゲーム内で行動するようになったとき、我々のなかにあったはずの「罪の意識」は後方へと追いやられる。

 自分で行っていることであるにも関わらず、そこに特段の感情を持つことが無く、心が麻痺した状態でゲームを進めるということは、「人殺し」という現実では決して行うことが無い行為にも平気で手を染めるということだ。

 私は『The Last of Us』というゲームで初めて人を殺した感触を覚えている。それはゲーム序盤において、がれきの中で感染者になる前にプレイヤーに殺してくれと切望する男を殺したときのことだ。銃を持った「ジョエル」は「私」であり、引き金であるコントローラーのボタンを押すことでその男は感染者になることなく逝った。多くの人にとっては、いわば銃の扱い方を覚えるためのチュートリアル的な存在でしか無いだろうが、この手の海外ゲームを初めてやる人間にとってはゲーム内のキャラクターであっても殺すことに抵抗を覚えるはずだ。しかし、その「暴力性」をニール・ドラッグマンは見過ごさない。たちの悪いことに『The Last of Us』はプレイヤーがゲーム内の「敵」を殺すことに慣れ切った終盤において、「人類を救おうとする医者を殺す」という場面を用意している。エリーという存在と天秤にかけるように。これは有名なトロッコ問題を拡大解釈した話で、ほとんどの人はエリーを救うために躊躇なく医者を殺すだろう。インタラクティブなメディアであるゲームの強みはまさにここにあり、ジョエルと同期したプレイヤーにとって「これが正しい」と思わせる説得力をここまでの旅で植え付けられているわけだ。しかし同時に、「一人を救うために世界を救うチャンスを放棄した」という事実もプレイヤーの心に残り続ける。
 そしてこの「医者を殺す」というシークエンスはドラマにも用意されている。ドラマ版最終話におけるジョエルの戦闘は徹底して虚無的であり、カタルシスは無い。「自らの手で行った」という感覚が無い視聴者にとって、そこに生起する感情はひたすらに「やるせない」という気持ちだろう。製作者もそれは理解しており、エリーを救うためとはいえ必要以上にジョエルが人殺しをする場面を見せれば、嫌悪感を抱く可能性を考慮してこのような演出を行ったと考えられる。それでも最終的にジョエルはやはり医者を殺す。ジョエルの行動の正否は視聴した各人に任せるとして、問題はジョエルの行動にドラマ版はどこまで説得力を持たせられていたのか、ということだ。それはおそらくニール・ドラッグマンがドラマを製作するにあたって重視した点でもあるだろう。

 娘を失ったジョエルの怒りや悲しみは感染者だけでなく、人間にも向いている。ジョエルの「敵」に対する報復は連鎖を呼び、それが続編である『The Last of Us Part Ⅱ』のテーマとなるわけだが、ドラマ版においてはそれを先取りするようなエピソードが用意されている。4話目から登場するキャサリンという人物はヘンリーに兄を殺されている。これはゲームでは描かれなかったエピソードなのだが、もし5話目で事故的に“キャスリンが死ぬことなく生き残ったら“という展開こそが続編の骨子となるのだが、その話は本題とずれるので止めておこう。

 ここで言いたいのは、ドラマ版ではゲーム版には無かったオリジナルの展開や脚色、あるいは人物の深堀を用意しており、それによって最終的なジョエルの選択に意味を持たせ、ゲームとは違った形で「罪の意識」を製作陣が届けようとしている、ということだ。

 大筋は原作を忠実になぞっているドラマ版は、マイノリティの人々を原作ゲーム以上に多く登場させることで、より現代的な物語へアップデートしている。
 これはジョエルを操作することでプレイヤーに芽生える「自分事」だという感覚が(ゲームよりは)希薄な、ドラマ版における措置でもあり、その分人間ドラマの部分を掘り下げることで新たなナラティブを生み出そうという試みに思える。群像劇や長い時間をかけた話は一般的にはゲームに向かず、逆にじっくり時間をかけて見せることができる点こそドラマという形式の強みだろう。
 そういったドラマの特性を生かした話の作り方は3話において結実する。原作では無かったビルとフランクの物語を1話まるごと使って「愛」と「人生」について描き切った屈指のこのエピソードは多くの人たちの支持を集め、視聴者の数を増やすブーストとなった。

 このドラマは1話ごとに登場した誰かしらがいなくなる。それこそ菌が徐々に体内を浸食するかの如く、世界が死に覆われてゆくように。第2話におけるテスの最後の場面は象徴的で、寄生菌に犯された彼女は残った理性でジョエルたちを救おうとするが、ライターに火が点らない。やがて感染者の群れがこちらに気づいたとき、もはや自分自身が「あちら側」の存在となっていると気づく。ここの絶望感はすさまじく、これもドラマ版ならではの脚色である。

 発売されて10年経ったゲームをドラマに置き換えるにあたって行われたこれら様々な脚色は、登場人物たちを深みのある人物へアップデートさせており、同時に現代的な問題を浮き彫りにさせてもいる。つまり、ニール・ドラッグマンが『The Last of Us』という物語で伝えようとしたのは「人生を生き抜く意思」についてなのだ。ドラマ版の脚色はそれを伝えるための脚色であり、最終的にジョエルが背負うこととなる「罪の意識」は周りの人間の人生をより深く、より豊かに描くことで視聴者に届いたと私は思う。

 一話ごとに人が死に、世界は衰退してゆく。そうした死にゆく運命から逃れるように二人はファイアフライの基地を目指して前へ前へと歩を進める。物語は一種のロードムービーであり、ジョエルとエリーの経験を通して世界の過酷さを我々視聴者は知ることとなる。その過酷さは現実世界の過酷さだ。だからこそ感染者の脅威は後ろへ追いやられ、その世界に慣れた者たちはなお人間同士でいがみ合う。本来なら最大の脅威となるはずの"感染者"は最終話においてほとんど「道具」の役割になり、それよりもよっぽどやっかいな人間を中心としたドラマとなる。

 このドラマでは何かが解決することは無い。なぜならこれはフィクションを通して現実を描いているから。唐突に凄惨な場所に連れて行かれたジョエルは何もかも失いながら、それでもその場所で生きてゆくほか無く、菌と感染者が蔓延した世界は元の世界に戻ることは無い。

 かつてゲームをプレイしたとき、何者でも無いモブキャラクターの男を殺した感触を私は覚えている。それが虚構かどうかは関係ない。数々の犠牲の上に自分の命があり、私たちはそこで耐えて生き抜くしかないのだ。繰り返しになるが、このドラマが伝えようとしているのはそのことだ。

 トロッコ問題を想起させる物語は、コロナ禍を経験したいまとなって生々しく全世界の人たちに響く物語となり、より「耐えて生き抜け」という言葉が胸に突き刺さる。救いは無く、選択の中にわずかながらつなぎ止められている私たちの「生」。それでもなお生きる価値があるとしたら他人という存在がいるからだろう。
 しかしこのドラマは最終局面においてエリーがジョエルに対して言いようのない感情を持つシーンで幕を閉じる。「わかった」という言葉とともに、あまりにも唐突に。その言葉に込められた二重三重の想いはエリーにとっての祈りなのだ。

 そしてその祈りはおそらく届かない。この受け入れられない願いを持ちながら、変わりゆく世界になじんでいくしか道はない。言いようのないやるせなさを抱き続け、その生と死の狭間で、彼女の戸惑いは終わることが無い。

 優れたフィクションの多くがそうであるように、ドラマ『The Last of Us』もまた「いま」と「未来」を繋ぐ、希望と警句の作品であり、ゲーム原作の映像化作品としてメルクマールとなるだろう。

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