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テーブルに置いていたカメラが時間について考えさせてきた話

先日、インスタのストーリーに4枚の写真をupしました。
これです。

妻です。
ふつーーーに行ってらっしゃいをしました。
本当に何気ない瞬間の写真で、
撮った時は特に何も考えず眠い頭で
いってら~とか言って、テーブルにあったカメラで撮っただけの写真です。
でも、あとで見返したときにぼくにはとても大事な写真に思えました。

なぜなら、
この何気ない瞬間はもう二度と絶対に戻ってこない。

当たり前のことなのですが、痛感しました。

ギリギリまで寝て、起きてから猛ダッシュで支度をする朝に家族のいってらっしゃいをする。ここまでならできる。
でも、その時にカメラを持っていられるか。
写真を撮れるか。
これからの人生でこんな写真を撮れるのはあと何回だろうと思った時、ちょっと怖くなりました。

80歳で死ぬと仮定して、27歳のぼくがあと春の桜を見れるのはせいぜい50回。
海外駐在とかになったらもっと少なくなるかもしれませんし、
あの2020年の春は近所の桜をコソコソと見るくらいしかできませんでしたよね。
他にもオリンピックは4年に1回しかないからあと10回ちょいしか見れないし、
月食や日食なんかはもっと少ない。(調べたら月食は意外とあったけども。)
流れ星、虹は?
友達と会える機会だって、それぞれのライフステージを歩んでいく中で
簡単に会えなくなることなんて自然なことです。全く珍しくない。
でもね、もっともっと細かい視点で考えると、27歳の妻は1年しか撮れないし、
玄関から出ていく様子は15秒もかからない。
なんなら明日に死ぬかもしれない。

切なすぎる。刹那すぎる。

これから、あと何回一緒にご飯を食べられるだろう。一緒に映画を見れるだろう。好きな漫画の話をできるだろう。
旅行に行けるだろう。

写真をやっているぼくにとって、
日々を記録することが凄まじく価値のあることに思えてきました。
このことは、おそらくお子さんが既にいらっしゃる人は痛感されていることなんだと思うのですが、子どものいないぼくには鮮烈なインパクトがありました。いや、いま体感できてよかったか?

この玄関の妻の写真を撮った日は4月24日。インスタにupしたのは4月26日。
今これを書いているのは、4月27日。
そう、あなたの誕生日ですね。
今年のあなたの誕生日は、ぼくの勝手な用事でバタバタしていて、ろくなこともできていないので大変申し訳ないのですが、
いつも一緒にいてくれて本当に感謝しております。
ほぼ毎日、お弁当作ってくれていますね。
毎日、ぼくのくだらない小ネタにドライな反応したり、極稀にゲラゲラ笑ったりしてくれていますね。

そういう幸せな日常はたぶん記憶から消えて行ってしまう。
昨日の晩御飯も思い出せないぼくにとっては、非常事態です。

あ、サイゼや

だから写真を撮るんです。撮りたいんです。(to return this)
撮った写真から、その前後の会話が、見ていたものが、匂いが、肌触りが、感情が思い出せるようになる。
いつか見返して、あの時こうやったなと言えるのが写真のいいところだと
本当に思います。

これからもいい時間を一緒に過ごしていきたいですね。
Happy Birthday.

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