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小林秀雄と入試 ドキュメントから見る文章読解と教育

はじめに

このテーマで書くには勇気がいる。小林秀雄の文章が難解だとされるからだ。実際読めば、言いたいことは分かる文章なのだ。美文であるが、良文ではない典型的例であるので、ある意味入試問題には最適である。
ならなぜ出題されるたび批判されるのだろうか?

学校での国語教育

正直、文章の意味をとるのはコミュニケーションに似ていて、相手のことを知らないと難しい。同時代の人の文章であれば、社会状況を把握しているので、そこから推測できる場合に、理解できたという感触を得られる。
それ以外だと、作者周りの情報を学習する必要がある場合が多い。
なぜそこに注目するかというと、現状テキスト主義が強すぎて、文章の中に答えがあるという教え方をするようになっているからだ。
なぜこれが問題かというと、プログラマの仕事に従事している私の経験からだ。プログラミングとは自動化したい作業をコンピュータが理解できるような形式に変換した命令をつらつら書いていく作業であるが、変換の流れで元の要求がわからなくなっていくことが多い。
例えば東京まで旅行に行くという要求に対して、プログラミングをしていく場合、まず現在地を情報の取得して、交通手段を選択してとか、コンピュータに理解できるように細かく論理的に書いていかなければならない。ノイマンがコンピュータプログラミングについての研究を人に薦めなかった理由が分かる気がするほど、地道で細かい面倒な作業なのだ。
それ故に元の要求はプログラミングとは別にドキュメントとして、別に記載していく必要がある。上述した文章の意味をとる時とアナロジカルに同じなのだ。
では私たちは国語の授業で作者のことやその時の社会について習っただろうか?つまり、意図を外す可能性の高い状態にされているわけである。教育の仕方が良くないと言ってもいい。正直プログラミングの授業より、こういう突っ込んだ教育をした方が手法として、実社会で役に立つ。
ということで、小林秀雄について、私たちはどれほど学んだのか?中原中也との関係とか出版社で編集やっていたとか、小説家志望だったが挫折していたとかそういう表層的な部分でも学んだのか?
私は副読本を目を皿のようにして読んでいたので、平均的な学生より知っていた。なので、有名作家の方がわかりやすかった。

翻ってITはどうすべき?


正直、文科省は現場の教員の指導内容を細かく指示すべきだろう。正直、客にとってどうでもいいテスト仕様書の提出を決めちゃう会社とか頭おかしいとしか言いようがない。バカはそこに頑張っちゃうからタチが悪い。
日本のITがやばいのは、単純に底辺が出来ないからだ。底辺がもう少し効率が上がり、単純なアプリケーションを少人数で保守できるようなれば、底辺の上澄が、危機感を覚え一流と言わなくても、二流の仲間に入っていく。そうやって一流は新しいサービスをつくるしかなくなり、発展していく。IT業界がやるべきは上流工程を自動化していく必要がある。
パターン化して工数を減らそうとしたのが、オブジェクト指向の本質であるのに、日本ではなぜか誤解されてうまくいかなかった。

本当にIT技術を義務教育に入れたいなら

まずは業務アプリを発注するやり方を教えた方がいい。つまり、要件定義くらい発注側ができるようにすべきだ。要件定義とはどんな機能が業務を自動化、改善するのに必要かということをある程度詳細に作ることだ。機能は現状画面と動きだ。
まぁ、もっと学習時間が取れて、じっさい作るところまで行けたら、日本は変わるのでは?

あとがき

今年はなんか仕事がうまくいかない、体調が崩れる等いろいろあったので、三分の二愚痴ってしまったけど、要は国語の勉強だって教科書と副読本に分かれている。もうちょっとその意味を考えて欲しいっていうのと、ITの本質は情報の管理なので、パソコン使ってゲーム作る授業ではなく、情報をどうまたまとめるべきか、まとめるためにはどういうパターンがあるか、どう保管するか、必要なときすぐ出せるにはどうすべきか、必要なデータ形式になるようにするにはどうしたらいいか。こういう授業が大事だ。

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