序文 盗まれた天使

<芸術作品というものは、それ自体が美であるわけにはいかない。なぜなら、作品は死んでいるからだ。>*1

人類のすべてが消え去ったとき、芸術作品とはもはやなにものでもない。人類のすべてというのは、「人類のすべて」をなにか実体のあるものとして思い描く君の意識のことだ。他人が何に感動しようと何に拍手を送ろうとそれがなんだというのだろう。ごくシンプルに、頭で考えるよりもシンプルに考えるなら、自分が感じたことが世界のすべてだということが明らかになる。もし芸術作品という物言わぬ死骸に何らかの感興を抱くとしたら、それはもはや君たち自身が創作者なのだ。誤解してはいけない。君たちが創作したのはそこにある死骸ではない。その瞬間に感じ得た個人的な世界のすべてを創造したのだ。楽園はそこにある*2。しかし君たちは死骸である芸術作品を賛美し、その作者に親しみと尊敬の念を感じ、自らが創作した世界を死骸に従属させてしまう。君を楽園に連れていくのは作者ではなく、君の中にいる天使だ。そして天使が死ぬことはない。「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」*3のである。

<世界は、数えきれないほど形が変わっても、結局それを見ている者の側に属している。>*4

病の中には自己を土台から蝕むようなものがある。たとえば認知症。記憶がおぼつかなくなって自分が何をしたのかもわからなくなる。統合失調症。行動や思考が自分のものに思えなくなって本物の現実がどれかわからなくなる。離人症。感情が感じられなくなって自分が他人のように思えてくる。コタール症候群。身体や感情が自分のものだという感覚を失って自分がすでに死んでいるように思えてくる。しかしそれらの患者にも依然としてそれを体験している<私>は存在する。「感情がなくて悲しい」というのはある離人症患者の言葉だ。

<彼らには信じることができません、どんなものも——あらゆるものを変容させる<思考>を除いて、——この地上では幻にすぎないということを。>*5

荘周は眠りの中で胡蝶の夢を見た。そして目覚めた<私>が荘周の夢を見始めた。悪夢は自分を<私>だと錯覚するところから始まる。いずれ期限が切れる自己という形代の呪われた硬直が<私>を締めつけ、湧出する生の泉は硝子の病におかされる。自己と<私>とを結ぶ不可能のつながり、その無理な二重性が人間を楽園から追放した。だからそれをやめるだけでいい。私は<私>なのだと思い出すだけ、ただそれだけで硝子は溶けていく。天使は帰ってくる。*6

ぼくたちは何度でも目覚めることができる。自分が存在するのなら、そこはいつでも夢の中だからだ。夢の中に秩序も正しさもあり得ない。カフェで聞こえてくる会話、街で見かける光景、ニュースで報じられる事件、インターネットで見られる多種多様なメッセージ、あらゆるものが秩序も正しさも無いということを突きつけてくる。「真なるものはない、すべてのことは許されている」。*7 人間は渾沌の出来損ないだ。なぜなら理性によって作られたものではないからだ。理性は何も作らない。判断するだけだ。人間を突き動かすのは、人間以前の自分、自分とはいえないくらい遡った自分、それは<世界を見ている者>であり、自分という夢を見ている<私>、つまり生そのものだ。すべての創造性はそこに宿っている。そこからまたはじめよう。*8

2021.12 早乙女まぶた


*1 トリスタン・ツァラ『ダダ宣言1918』
*2 ルカによる福音書 17章21節には「神の国は汝らの中に在る」と書いてある。
*3 コリント人への第二の手紙 4章18節
*4 トリスタン・ツァラ『ダダ宣言1918』
*5 ヴィリエ・ド・リラダン「見知らぬ女」『残酷物語』
*6 もちろんこれで認知症や統合失調症が治るとは言わないが、それらを患っているのは自己であって<私>ではないので、<私>が抱える苦しみは緩和されるかもしれない。『私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』の著者であるアニル・アナンサスワーミーも仏教やアドヴァイタ哲学を引いてその可能性を示唆している。
*7 これはニーチェが精神の自由を示すものだとして『道徳の系譜学』で紹介した言葉だが、ドストエフスキーもイワン・カラマーゾフに「いっさいは許されている」と言わせている。カミュはこのイワン・カラマーゾフの言葉について「なにひとつ禁じられていないという意味ではない」「どの行為の結果も等価値だとするだけだ」と説明している。つまり何をしても何もしなかったのと同じということだ。にも関わらず、ある行為によってなにかが変わったと感じるのであれば、そこにきみの関心があったということであり、もしその変化が許せないのであれば、他でもないきみ自身がその行為を許していなかったのだ、ということになる。「自由には責任が伴う」などという九官鳥のさえずりが少しの意味内容も持たないのはそもそも自由な人間がどこにもいないという事実から明白なのだが、その一方で、自由になりたいだけなのになぜか責任の着ぐるみを被せられて一個の干からびた社会人になってしまった詐欺被害者が大勢いる。自分の行為を許せるのは自分だけなのだから、よそから「自由」を得たとしてその中身が新しい不自由でしかないのはむしろ当然の話だ。とはいえ、それはたいした問題でもない。<私>を無視しているあいだは、何を選んでも結局は同じことだからだ。いずれにしろ、不自由よりも「自由」の方により多くの価値があるわけではないということに気づかない限り、「いっさいは許されている」ことを実感するのは難しいだろう。
*8 ところで、なにをはじめようというのだろう? それは「《世界よ滅びよ、我よ成就せよ》という思想」(『道徳の系譜学』)をである。「世界」がなにか、「我」がなにか、ということはすでに書いた。シェストフはこの言葉について『悲劇の哲学』の中で「すべての人間にとって、結局、この唯一究極の法則だけが存在するのである」と書いているが、「すべての人間」にとってどうであろうとそんなことはどうだってよくて、壊れながらでも失いながらでも加速しなければ生きていけない有限のぼくたちにとって、思い出すたびに痛みはじめるような傷口を明るみに出す太陽の光よりもこういった地下室の冷たい光が指し示す道を進むしかないのだと思う。