20190331 / naname

社会から解放されたところで今度は金の心配をしなければならず支配の枠が一重外れただけだということに気づいたのはいつのことだったか
今度は振り落とされないように仕事終わりの喫茶店で問題集を開いて九時間労働の頭に知識を詰め込もうとする様は
水を一杯に含んだぶよぶよのスポンジに蛇口からひねり出した水をかけるようなもので
ただただ流れ出ているようにも思うし吸収する代わりに別の記憶が流れ出ているようにも思う
隣の席では大学生とサラリーマンが会員制のビジネスの話をしている
オフィスの設備と組織の仕組み、何人紹介すると利益が上がるか等々
演者もタイトルも知らない店内のジャズソング、目に入ったから頼んだだけの期間限定のフラペチーノ
そんなもので記憶容量をさらに埋め込み、目の前の回路図などはただの点と線としか思わなくなる
若い店員が隣の二人におずおずと注意し、スーツの男が快活に答える
そこから出ていく様子もなく話を元に戻している。慣れたものだ。
問題集の解説を一字一句違えずノートに書きなぐる。文字の形、図形の形をそのまま飲み込む。消化してどうなるかは知らない
店員が二度目の注意に来る。お互いにとって全く無益な時間だろう
目途をつけ鞄を拾い飲み干したマグカップを摘み上げる
二人はまだ会話が続いている。過剰なサービスと過剰な受け入れ態度が生み出す長い時間
通りがかったレジの向こうでさっきの店員がアルバイトと談笑している
もう少ししたらまた注意に行きますよなどと言って
世の中うまくできているものだ。私が思うより幸せに生きている人は多いのかもしれない
ラッシュを過ぎても電車の中は座席が空くほど人がいないわけでもない。
残業なのか買い物終わりなのか明日の生活もままならないのか
電車の広告は占いと投資、消費者金融と英語教材、週刊誌、塾の広告で満ち溢れている。
統計から得られたマーケティングのターゲットたちが一人また一人電車を降りていく。
目線を上げると次の降車駅が見慣れないことに気づき、一駅通り過ぎたことを知る
それに、車内を照らす照明が剥き出しのどこにでも売ってる蛍光灯なことに驚く
随分長い間毎日のように乗ってる電車の中でそんなことに驚けるのかと感じながら引き返す
構造物であれ社会情勢であれ複雑な仕組みであふれてしまっている中で
急にありふれたものに出会う戸惑いはそれほど多くはないけれど時々は起こる
科学と魔術の違いはそこに法則があるかでしかない
信じることと実際そうであることにだって本人の中には大した違いはない
それが破綻し崩れ去る原因は大概、他者の観察と指摘だろう
夢から覚めるのは夢を見ていた人間だし夢を見られるのは夢を見ていない人間だけだ
夢を夢で上書きすることもできるかもしれないがもはや肉体は置き去りになってしまっているだろう
かつて見ていた夢に実体はなく、顧みようとしてもただ自分の脳のどこかから引っ張ってくるだけだ
そこに私は花を捧げることも唾を吐くこともできない
他人の夢だって同じこと、私が他人に捧げる花は他人そのものへの花であって他人の夢への花ではない
耳に当てた貝殻は私たちの音を跳ねかえして反響して聞かせる
それを私たちがどう思ったところで貝殻が知ったことではない
持ち主はとうにどこか遠くに行ってしまったに違いないのだから
朝はいつでも人で満ち満ちている比較的安い中途半端な駅で降りる
点滅する街灯を浴びた先はいよいよ薄暗い
この先の闇から出られることは誰も保証してくれない
だなんて思っても15分も歩けば見慣れた家の前にいつも通りに立っている
鍵を開けたところで誰が潜んでどんな刃物が私の脇腹を刺し貫くなんてこと起きないとも言えないだろうが
開けてみれば薄暗いワンルームと唸りを上げる冷蔵庫の音
ここにあるのは積み上げられた切実な日々
気が狂うでもなく、切実に、一つ一つを積み上げていくことだけだ
積み上げることに意味を感じたことなど無いにしても