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【コラム】シャンバラの戦士の予言を知って

先日、知人から「シャンバラの戦士の予言」を教えてもらった。
とても共感できる内容だったのでシェアしたい。

出典は、つながりを取り戻すワークで有名なジョアンナ・メイシーさんの「アクティブ・ホープ」という書籍のようだ。いつか本書も読んでみたい。


一連の文章すべてが響いたのだが、特に、二つの道具が必要だというポイントに感じるところがあったので言及してみる。

「二つの道具の使い方を覚えるのだ」
「一つは慈悲の心。もう一つは、ありとあらゆる現象が互いに依存し合っているという根本的な洞察だ。」

シャンバラの戦士の予言より

慈悲の心

最近、慈悲の心ってこういうことなのかも?という体験があった。
自分自身は、普段から慈悲深いとか、思いやりがある方かと言われると決してそんなことはなく、むしろ表面的にはドライな部類に入るだろう。
慈悲の心とつながる、コンパッションについて書かれた、ジョアン・ハリファックス老師の「コンパッション」も、1年前に読んでみたが、周りの人ほど動かされるものを感じられなかった。

それが、最近少しづつ変化が起こり始めた気がする。
きっかけは、幼少期を振り返ってみることだった。
今年1月に亡くなった父の死をきっかけに、これまで振り返ることのなかった自分自身の幼少期や父との関係に向き合うことを始めてみた。
あまり性急に処理しようとしてもうまくいかないことが目に見えていたので、前々から気になっていたNVC(非暴力コミュニケーション)の年間プログラムに締め切り間際に駆け込みで申し込み、じっくり向き合ってみる事にした。

合宿で自己開示したり、自分の中に複数の感情や思いを同時に持っていることをパーツとして理解する、内的家族システム(Internal Family Systems Model:IFS)のワークを通して、自身の中にあれど、これまで見てこなかった感情や思いがある事に気がつき始めた。

気づき始めた感情は、トラウマと言われるものに属する感情なのか、なかなか触れに行くのも難しい。
初めは、「ただそのような感情があるな」というのを遠くから優しく包みこむように、その感覚を感じ続ける、ということをやるようにしてみた。
反応的に対処しようとすると、それを解決しようとしたり、見えなくしようとしたり、感情が溢れてしまいそうになるのだが、その感情や想いに深入りすることなく、その場にただ居続けてみる。
初めは違和感や、苦しさが勝つのだが、深追いすることなく、ただあり続けることを時間を置きながら何度か繰り返していくと少しづつ「共にいる」ことが出来るようになってきたように思う。
少しづつ「共にいる」ことができるようになってくると、少しづつ深く思いを馳せることも出来るようになってきた。

ザ・メンタルモデル

深掘りする時に助けになったのが、知人に教えてもらった由佐美加子さんの「今日斬り」の動画だ。

由佐美加子さん(みいちゃん)のテンポのよい問いかけで、経営者がズバッと斬られて、メンタルモデルをつまびらかにされる番組だ。にもかかわらず愛が感じられて嫌な感じはまったくない、そんな動画だ。

毎回の流れはザッとこんな感じだ。あまり手順化するものでもないのだが、自分の理解のために書いているくらいで見ていただけると良いかと。

「今日斬り」に応募した経営者とみいちゃんこと由佐美加子さんとの1on1での会話を通してメンタルモデルを紐解いていく。

1.はじめに普段起こりがちな不本意な現実を教えてもらう。
何が残念なのか、繰り返し起こっている不本意な現実を見つけ出す。初めは日常の何気ない事柄から始まるが、深掘りしていく中で踏み込んだものが現れてくる。

2.不本意な現実を起こさないために行なっている克服行動、または回避行動を聞く。

3.回避行動の源泉となっている信念を聞く。
「だって私は、〇〇だから、回避行動するしかない」というのを表明してもらう。
この〇〇がその人の信念となっている。
〇〇に入るのは、例えば「もともと能力がない」などだ。

4.信念を生み出した、痛みや無力感に触れていく。
「〇〇だ」と言われて、思い出すような幼少の頃の原体験に触れていく。
痛みを感じた原体験が、信念を作りだし、回避行動を生んでいる事に触れていく。
大抵の人が、自分自身ではどうしようもなかった無力感を過去に体験していて、それが痛みになっているという。

5.痛みを感じる、「鍵言葉」を見つけ出し、それを言われた時に、そこで湧き上がってくる感情をただ感じてみる。
多くの場合、普段は痛みを伴う「鍵言葉」には極力触れないようにしてしまうため、あえてその言葉を突きつけて「共にいる」ということをやってみる。この体験体感のプロセス自体に意味があるという。

6.痛みを生み出しているメンタルモデルに触れる。
発見されているメンタルモデルは、
「愛なし、価値なし、欠陥欠損、ひとりぼっち」の4つのメンタルモデル。
4つのメンタルモデルには、現代社会の嘆きとして現れていると分析されている。自身のメンタルモデルに気づくことで、それぞれの人が持つ使命に気づくことが出来るようになるとのことだ。

百聞は一見にしかず。感動的なまでの動画をご覧ください。
こうやってシェアしていただいている事に感謝です。

慈悲の心に触れた?

動画を見たり、自身の原体験を回想していく中で、自分の痛みや無力感を思い出すようになった。その感情と共に居続けることをやっているうちに、少しだけ変化があったように思う。

私には、どうしても分かり合えない人がいて、付き合いも数年経つが、話せば意見が衝突するか、表面上の会話しかできない状態が続いていた。最近は、もっぱら表面上の会話に終始してしまうことも多くなっている。
どうしても話さなければいけない内容があり、勇気を出して話しをするものの、いつものような返しに、怒りやイライラする感情が高まってしまう。
いつもであれば、この場面は、反応的になるところだが、一呼吸おいてみる事にした。
自分が痛みを持っているように、この人にも痛みがあって、どんな痛みを持っているのか?と思いを馳せてみた。
自然と反応的にならずに、違和感は相変わらず大きいものの、そこに居続けることができた。

その夜、会話の場面を振り返って、いままでとは違う行動や会話ができたことに、これまでにない別の結果をもたらせる予感のようなものを感じた。

共感は、相手に対して思いを寄せることができるからこそ生まれる。
共感できる部分がまったく見出せない場合、共感は生まれるだろうか?
生まれないだろう。
だが、共感できる部分をひとつも見いだせなかったとしても、
相手を受け入れるのは無理だと思ったとしても、反応的にならずにただ同じ時間と同じ空間に、共に居続けられること。
これが慈悲の心なのではなかろうか?
そんな考えが浮かんだ夜だった。

ありとあらゆる現象が互いに依存し合っているという根本的な洞察

これは、つまりはシステム思考のことを言っているのではないだろうか。と勝手に解釈してみる。
システム思考は、物事のつながりをみて、結果がどのように生み出されているのかを洞察するツールだ。
システム思考を駆使したとしても、ありとあらゆる現象の繋がりを全て書き出すことはできない。
全てを書き出す努力をしたとしても、解読不能なスパゲッティ構造が現れるだけだろう。

逆に細かく取り出して分析しようとすると、全体の性質を見逃してしまう事になる。
これは、まるで「生きた魚」を解剖して、細かく調べた後、それらを縫い合わせて元の形に戻しても、最初の「生きた魚」には復元できない事に似ている。
では、どうすれば良いのか。
対象を「部分」に切り刻む事なく、その「ありのままの全体」を「洞察」によって把握することが大切になる。
システム思考も、全体のつながりを全て書き切る事が大切なのではなく、「ありのままの全体」を「洞察」するために、重要な繋がりを書き下していくことが主眼となるだろう。

成長の限界より世界モデル

さらに、システム思考で重要なポイントは、システムを作り出しているのは、そのシステムに関わる人たちの一人一人、そして集団が持つメンタルモデルによって作り出されているという点だ。
「社会の構造(システム)」と「一人一人や集団が持つメンタルモデル」が繋がっていることに気づくと次の一文はすっと入ってくる。

その洞察があれば、これは善人と悪人の戦いではなく、善と悪を分かつ境界線はすべての人間の心の中にあるということがわかる。
そして、私たちは生命の織物の中でお互い密接につながり合っているので、私たちの最も小さな行いでさえ、あたかもさざ波が広がるように、私たちの目には見えない彼方まで、織物全体に波及することがわかるのだ。

シャンバラの戦士の予言より

シャンバラの戦士の予言

【シャンバラの戦士の予言】
地球上のすべての生命が危機にさらされるときが来る。
そのとき、大きくて野蛮な精力が台頭しているだろう。
彼らは互いを抹殺しようとしてその富を浪費するが、彼らに共通する点も多い。彼らが共通して持っているものの中には、想像を絶する破壊力を持った武器と、世界を荒廃させるテクノロジーがある。
人類の歴史において、すべての生命の未来がまさに危機一髪の窮地に陥ったそのときに、シャンバラの王国が姿を現す。
あなたはそこへ行くことはできない。なぜならそれは場所ではないからだ。それは、シャンバラの戦士たちの心と頭の中に存在する。外見からは、その人がシャンバラの戦士であるかどうかは見分けがつかない。
彼らにはユニフォームもなければ、バッジもつけてはいないからだ。どちらの味方かを示す軍旗も持ってはいないし、敵を威圧するためにその上に登ったり、その陰に隠れて休息し、隊列を整えるためのバリケードもない。彼らには自分たちの領土さえないのだ。シャンバラの戦士たちが移動し、行動することができるのは、野蛮な勢力が支配する領域においてだけなのである。 シャンバラの戦士たちに、精神的にも肉体的にも大きな勇気が求められるときが近づいている。
なぜなら彼らは、野蛮な勢力の中枢に向かってまっすぐ進み、その武器を解体しようとしているからだ。
彼らは、武器がつくられ、配備されている敵の要塞に潜り込み、意思決定が行われる権力の回廊に入り込む。
こうやって彼らは、あらゆる意味で武器を解体しようとしているのだ。 シャンバラの戦士たちには、これらの武器は解体できることがわかっている。なぜならそれらは「心が創りだしたもの」であるからだ。
それらは人間の心が創りだしたものである以上、人間の心によって破壊することができるのである。
私たちが直面している危機をもたらしたのは、悪の神でも、邪悪な地球外の勢力でも、あるいは前もって定められ、変えることのできない運命でもない。
そうではなく、これらの危機は私たちの関係性や習慣、あるいは何を優先事項とするかによって生み出されるのである。
「だから今こそ、シャンバラの戦士たちは訓練を始めるべきときなのだ」
「どうやって訓練するのですか?」
「二つの道具の使い方を覚えるのだ」
「一つは慈悲の心。もう一つは、ありとあらゆる現象が互いに依存し合っているという根本的な洞察だ。」
私たちにはそのどちらも必要である。
慈悲の心は、私たちがいるべき場所に行き、やるべきことを行うための燃料となる。それはつまり、世に存在する苦しみを恐れないことを意味する。
世界の痛みを恐れないとき、何も私たちを止めることはできないのだ。
だが慈悲の心は、それだけではとても熱くて、私たちを燃やし尽くしてしまうかもしれない。
だから私たちにはもう一つの道具、すなわち、この世にあるすべてが根本的につながり合っているという洞察が必要なのだ。
その洞察があれば、これは善人と悪人の戦いではなく、善と悪を分かつ境界線はすべての人間の心の中にあるということがわかる。
そして、私たちは生命の織物の中でお互い密接につながり合っているので、私たちの最も小さな行いでさえ、あたかもさざ波が広がるように、私たちの目には見えない彼方まで、織物全体に波及することがわかるのだ。
だがこれは少々冷たく、観念的でさえある。
だから私たちには、慈悲の心が持つ熱さも必要なのである。

シャンバラの戦士の予言

最後までお読みいただきありがとうございました!

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