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大きな盥

まだ梅雨が明けない。

中国地方だけ除かれて、九州も四国も明けたのになぜ、こんな昨日も今日も晴れなのに。

一学期のおわり、書写の授業で生徒に書いてもらった暑中見舞いも、一応梅雨明けに出すものということで「梅雨が明けたていで書いてネ」と言って書いてもらったので、以来大事に保管しているのだけどまだ明けないもんだから、いつまでも出せない。生徒たちのハガキのなかに、夏はもう来ているというのに。

思えばこの一学期、ひとりではなく何人の生徒に「私はあなたの味方だから」と言っただろう。まっすぐ目を見て、何度言っただろう。

こんな短期間のうちにたくさん、「あなたの味方だよ」と言ったのははじめてだ。なんなら面と向かってそんな風に言ったのさえはじめてだ。
それぞれ言い分が違っても、向き合ってひとりと話せば、必ず私はそう言った。ほんとうに、心からそう思って言った。一人ひとり、まっすぐに目を合わせて、頷いてくれた。私も誰も、笑ったりなんかしない。

以前、半年くらい前にはじめてねとらぼさんで書かせてもらった教育についての文章(「ハッキリ言って「学校」は地獄だ。それでも私が教員として学校にとどまり続ける理由」https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1812/23/news005.html)に、それは多くの批判的なコメントが寄せられたものだけど、それらの「自分でデモシカ教師って言うとかあかんやろ」「こんな人が教師になってほしくない」「やりたくないなら辞めればいい」みたいなすべて、反論すべき点がなくて落ち込んだものだけど、教員に復帰したこの数ヶ月は、相手がはじめての中学生ということもあるのか、これまでとは全然違って、そう自分でも驚くほどにまっすぐに、言葉を渡す機会が何度もあった。

基本的に全然向いてないと思う。学校が嫌いだし、教員が嫌いだ。どこにいてもそうなので、これは職場の問題ではない。

一致団結とか、しなくてもいいよねと言うときょとんとされる。高校生のように、それを笑うこともまだできない。相対化できない日々のあれこれすべてをまるごと抱えこんで、一人ひとりがみんなすべてを抱えこんで、ちゃんとみんな呼吸、できているのかって心配になる。教室は酸素が薄い。どの教室もおしなべて、そうである。だから。

だから、どうなんだろう。自分がそこにいることで、どうにかなるのか。私は二酸化マンガン+オキシドールか。はたまた水上置換法か。

彼ら彼女らの、律儀な書面の暑中見舞いを見つめる。しっかり下書きしてあるシャーペンの跡が、ところどころ消えずに残っている。なんなら消しカスも残っている。

…とか書いて、今一度スマホでスッスと調べてみたら梅雨、明けていた。中国地方も明けていた。数時間前に。なんだ明けたよ!よかった!私は長々居座っていたミスドをいそいそと出、ポストに生徒たちの暑中見舞いを投函した。やっとちゃんと、名実ともに夏なのだ。彼らのハガキも現実も。

そしてにこにこと眠りについて、翌日になってしまった。しかしこの文章、下書きのままにするのもなあと思ってだらだらと続きを書いてる。面白くないなと思いながら書いてる。私は別に自分だけがあとから読むための日記も書いているのだけど、こっちのほうがよっぽど面白い。人の悪口ばかり書いてある。いや嘘です。自分を叱咤し、自分を慰め、一人でなんだかすごく大変そう。あとから読むと全部他人事みたいに思えるから面白い。ほんとに全部私が思って書いたのだったか、と思う。

中学生の頃からずっと、今も日記を書いていてるんだとこの前授業で話したら、えー?!と言われた。クスクス笑われた。みんな書かないの?と聞いたら書かないよそんなの〜みたいな反応だった。だってほら、ままならぬこととか、寄る辺ないきもちとか、どんどんふくらんでしんどくなるじゃない、どうすんの?!と聞いてもそうかなあ、みたいな感じ。そんなことないはずだよ、書いていったん寝かせて、あとから読むとホラそのときのことを対象化できてとても楽になるんだよ。と言ったけどやっぱりクスクスされて終わってしまっただけだった。

たとえば、彼らのかばんのくたびれ。

毎日宿題や予習に追われる生徒たちのリュックはものすごく大きい。大きくて重くて、とても椅子にはかけられないから、机の脇か床に置かれている。

日記はいいよ〜とやっぱり念押しでもう一度言って、見遣る彼らの大きなかばん。あれを毎日背負ってここまで来て、また背負って帰るのだ。戦友のようなおもむきさえある。

だからたとえばどの映画に出てくる制服を着た生徒たちのかばんも、新品ぴかぴかで中身のおそらく空っぽである(ように見える)こと、そのリアリティのなさを確認するたびそんなかばん、嘘ものだと思う。生徒たちのかばんは、もっと重くて大きいんだよ、もっとくたびれてんだよ、と大声で言いたくなる。どんなにいい演技してたって愛を叫んでたって台無しだし全然グッとこない。

ムッとした顔をしたまま目があった生徒に視線を逸らされる。怖い顔をしていた。ごめんね。

日記はまあ、書かなくてもいいけれど、一人ひとりの日々が、いや日々とかくくっちゃうんではなく、一日。その一日が穏やかであれよ!どうにか!どうにかどうにか眠る前に安心して眠れるようにと心から思う。私は思っているよ。ほんとだよ。ほんとだよーーと叫びたい。笑われてもほんとうなのだから。

いい先生だと思われたいんだろ、と言われたら大きく頷く。そうです。でもそれは、いい人だと思われたいことと私にとっては同じだ。先生然としたいのではなく、いい人だと思われたい。じゃあいい人だと思われたいから、そうやって生徒をむやみに励ますの?と聞かれたら、それは意地悪だと言い返す。むやみに励ましてるわけじゃない。日常、深く関係している人たちにいい人だと思われたいことを否定されたくもない。

「私はあなたの味方だよ」

そう言われたら、どんなきもちだろう。一人ひとりの顔を思い返す。目を逸らした生徒はいなかった。
味方がなにを意味するかなんてどうでもいい。味方だよ、という言葉をこえて、私はその一瞬、一人を見ていた。そして一人にとってそうやって他者にまっすぐに、肯定のまなざしで見てもらったことは、もしかしたらそのときの、逃げられない、たしかな何かをもらったことにならないか。指示語でしかあらわせないような一瞬、を渡せていたら。言葉も人もすっかり忘れ去ってなお残るあのときの一瞬。

いい人だと思われたい、と思って一緒に唸って考えて、しかし口をついて出てくるのはきまって「私はあなたの味方だよ」なのだ。私には。
出てきてしまうんだから仕方ない。 いつだって大切なときに渡したいのは、言葉ではなくその一瞬だ。

七月は大きな盥七月は朝ごとにその瞳を洗う (服部真里子)

#日記 #エッセイ #短歌

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