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【当代編】7.生まれ変わりの娘

 そこらの石を拾い集め、中庭で急ごしらえしたかまどで朝夕煮炊きをし、そのかまどのそばにたらいを置いて、温室の水路で汲んだ水で洗濯をするサーカス団のひとびとを、雪花亭の窓から遠目に眺める家令アダムシェンナは、「日がな一日大騒ぎだな」とこぼして嘆息した。夜は夜で、あちこち洗濯物がぶらさがった温室から印度の音楽と歌声が響き、それらに混じってにぎやかな拍手や笑い声がたびたび起こった。それでも、夜半を過ぎる前に宴をおさめて寝静まってしまうのは、かれらなりにリィンセルへの義理を守っているようだ。
「自分がもっと厳格な態度でのぞむべきでした」
 アダムシェンナとともに、邸地下のワイン蔵を検めているときにコハクが省みて言うと、応じた家令が、「あまりに融通がきかないのも、公爵家ともあろうものが狭量と取られてスノードロップのご家名にかかわる」とあきらめ顔をされたのが意外だった。
「さて、ワインの場所と年代は覚えたかね」
「すべて書き取りましたが……」
「いずれ頭に入れるべきなのは理解できているようで結構。ところで、当家の本領地ベニントンとそこのカサブランカ城を、白雪公様に代わって管理している縁者のことを?」
「ベルナー地方を領するリグルワース家ですね。ご子息のおひとりが自分の学友でありまして、ご当主のフィリックス様とは昨冬の休暇のおり、ベルナーの館でお会いしました」
 カビくさい地下の蔵を出た家令と執事は、二人してそれぞれ上着についた埃やらクモの巣やらを手で払い落とした。
「さて、そのフィリックス様だがね。いずれリィンセル姫様が女公様になられても、お歳からいって前の旦那様のように議会でその責務を果たされるのは難しいだろうから、同じく議席をお持ちのフィリックス様に委任することになるだろうよ。白雪公様は本領地ベニントンのほか、マネット地方領の子爵位もお持ちであるから、今のままではベニントンにもマネットにも手が回らなくなる」
「リグルワース家は地主階級ですが、白雪公の縁戚であられますから、マネット地方領を託すに足ると?」
「うむ。これまでマネットのことは、旦那様のご意向のもと、家令の私が采配してきたがね。せめて姫様が社交界へお出ましになるお歳までは、ここ雪花亭での務めに専念できないかと思うのだよ」
「そうなりますと、この際、リグルワース家の継嗣でいらっしゃるフィリックス様のご長男リチャード様にベルナーをお任せになり、フィリックス様は議会、ご次男のパトリック様にベニントンとマネットを行き来していただくというのは」
「それがいちばん現実的であろうな。いずれにせよ、一度フィリックス様にお手紙をさしあげて、お伺いをたてねば」
 雪花亭の長い廊下を並んで歩くアダムシェンナとコハクが、あずまやのある中庭に面した窓辺へ差しかかると、外ではサーカス団の若い奇術師の兄妹が、双子のヴァイオラとサフィルや、星星と戯れるリィンセルを交え、なにやら立ち話に興じていた。兄妹が手にした、奇術の見世物に使う長物の飾り刀がぎらぎら光って見え、アダムシェンナがぎょっとしている。
「あの二人は……サーカス団の? 双子とあまり歳が違わないようであるな」
「兄のラーフラは双子より少し年上で、妹のマーヤのほうは双子より少し幼いです。歳が近いので話しやすいのでは」
 実際、印度生まれのラーフラとマーヤの兄妹からすると、サフィルの色濃い容姿はアルビス人より馴染みやすいようで、暇さえあれば邸の裏口や温室のあたりで話し込む様子がよく見られていた。
「踊り子のお嬢さんといい、奇術の修行も一朝一夕にはいかぬだろうに。サーカスというのは、ずいぶん若いうちからやるのだな。もっとも、イーストエンド街あたりの浮浪児ならば、雇い先がなければ物乞いやかっぱらいを働くしかないが」
「ごもっとも……」
 帝都に数多い浮浪児は、農村で仕事にあぶれた小作人が急激に都市部へ流入したことによる弊害の最たるものだ。
 まるで似ていない双子のヴァイオラとサフィルがこの邸に来たのは、コハクが寄宿学校に入ったあと、黒太守ダネル公の妻子が葬られてから数年内のはずだ。
 スノードロップ少尉の婚儀の日に、当時十二、三歳だったコハクは、年恰好の近い二人の幼児がござっぱりした身なりで下働きしているのを見かけた覚えがある。
 いくら陸軍士官とはいえ、公爵様のスノードロップ少尉が場末のイーストエンド街を通りがかるのもなかなか無茶な話で、どうせコハクの父のイヴォークがいかめしい執事面でお伴したのだろうから、懐中の十字短剣があれば恐れるものはない、というところか。
 そこでコハクはふと気付く。
 この世の果てのようなイーストエンド街とはいかないまでも、スノードロップ少尉と執事のイヴォークが死んだのは煙霧京の下町、テムズ南岸のバーモンジーだ。長年、妻子の復讐の機を待ち構えたダネル公の存在がありながら、わざわざ春荒れの嵐の日に、二人が外出したのは何故なのか。
 およそ人並み外れたダネル公の剛腕ぶりは、実際に対峙して軽くあしらわれたコハクが身にしみてよく分かっている。
(……復讐してくれと言っているようなものじゃないか)
「コハク? どうかしたのかね?」
 アダムシェンナの呼びかけで、思惟に沈んだコハクは我に返った。
 なにかおそろしいことに思い至ったのかもしれない。
 窓の外では、追いつ追われつし緑の庭を走り回るリィンセルと星星を、二揃いのきょうだいが見守っている。
 美しい顔をしたサフィルとなにごとか囁き合うマーヤの、年頃の少女らしい笑みは花が咲いたようだ。
 ラーフラとヴァイオラが、リィンセルを両側から支えて持ち上げ、馬に乗せるように星星の背に跨らせると、コハクのそばでアダムシェンナがしわがれた悲鳴をあげた。

 冬の訪れを目前にし、乾いた風の吹く短い季節は、煙霧京にたちこめる湿った霧や粉塵がいっとき払われて心地よい陽気になる。
 サーカスの客入りは連日盛況で、ニヴァリス・パークは溜池を一周する散歩道の落葉を踏みしめて歩く大勢のひとびとで賑わっていた。
「どうぞサーカスをごらんになってくださいな! 印度の踊りと、曲芸をやっておりますよ!」
 テントの入口に立ってお客を呼び込むアリアドネが、明るい声をあたりに振りまく。
 アルビス人からすると、印度の更紗を重ねた踊り子の衣装が珍しいらしく、アリアドネはいつも注目の的だ。
 テントのまわりに集まったひとびとの前で、アリアドネはすいっと腕を伸ばし、いくつもつけた金の腕輪をしゃらしゃら鳴らす。
 体にまとわりくヴェールをつまんだアリアドネがふわりと飛べば、わあっと歓声があがった。
「まだ奥の席が空いておりますよ! さあ、お入りください!」
 サーカス見物を迷っていたひとたちが、アリアドネの声に誘われるように、次々とテントへ吸い込まれていく。
「失礼、お嬢さん。サーカスはいつまでパークに?」
 かっちりと外套を着込み、いかにも紳士然とした立派な風体の初老男性が、帽子を外しつつこちらに歩み寄ってきた。
 体格がいいのは紳士階級の証のようなものだ。従軍経験があればなおさらだろう。男性はリィンセルと同じ貴族にしては身軽な様子で、従者もつれていない。社交シーズンをすぎた煙霧京に貴族の姿は少ないから、いずこかの大地主、あるいは実業家かもしれなかった。少なくともアリアドネへの物言いから察するに、サーカスごときと見下してやたらに威張り散らす御仁ではないようだ。
「今月いっぱいはここにいますわ、ええと……」
「ダネル・サリバンだ、レディ」
「では、サリバン卿。レディだなんて冗談口がとってもお上手だわ。私、見てのとおり印度のサーカス団の踊り子ですもの」
「しかし君は、アルビス人じゃないかね? わたしも昔、印度に滞在したことがある。ちょうど大反乱の起こった年で……あまり長くいられなかったのが残念だ」
「私の生まれた年ですわ。その大反乱のさなかに、実の両親と離されてしまったらしいんですの。あのとき、印度にいたアルビオンのかたがたは皆、大変な目に遭いましたから。養父は印度の生まれですのに、ひどい混乱の中で道ばたに打ち捨てられたアルビス人の赤ん坊の私を拾い上げて、今日まで育ててくれたんですわ」
「そうであったか。わたしの娘が生きていれば、君と同じ歳だ」
「まあっ……お気の毒なことです。私、ちょっと喋りすぎました」
「君は、娘と一緒に亡くなった妻のミナ・ソフィヤに、どことなく似ている。だからわたしも口が軽くなってしまった。いずれサーカス見物に伺うので、レディにはどうか許してほしい」
「私、アリアドネです。サリバン卿にはそうお呼びいただければ!」
 物怖じしない印度の踊り子の態度が愉快だったのか、サリバン卿がやわらかに微笑する。
「ギリシア神話の女神の名とは。こんなことを言うのは不躾だが、わたしはサロメかと思ったよ」
「あら、私、愛する男のかたの首をほしがるような、残酷な娘ではありませんわ」
「わたしだって、君に七枚のヴェールの踊りを所望することはないよ、アリアドネ。では、また日をあらためて」
「きっとですよ! お待ちしておりますから!」
 帽子をかぶり直したサリバン卿は、アリアドネに目礼し立ち去った。
(もし私のほんとうの父がここにいたら、こんなふうだったかしら)
 高貴な生まれを夢想するほど思い上がったつもりはないが、サリバン卿のふるまいはアリアドネにとって実に好もしいものだった。
 きっとサロメの話をできたのがよかった。養父のラムダスは、義理の娘のアリアドネを印度の人間と等しく扱うけれど、ラクシュミやパールヴァティーといった印度の女神の名前はつけなかったし、踊り子として仕込んで育てたのに、アルビオン語の書物を買いあさって幼いうちから読ませていた。
 印度で養父に拾われた境涯が、妻子を喪ったというかの人の慰めになるなら、孤児の自分にはこれ以上ない喜びに思えたのだ。

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