【当代編】5.新品執事

 スノードロップ家と父の忌があける前に、コハクはいったん大学へ戻った。
 卒業までは三ヵ月あまり、その準備を考えると葬儀に参列するだけでも微妙なところだというのに、あまつさえ、新品執事として慣れない葬祭儀礼に忙殺されて数日をつぶすなんて本当なら論外だった。
 二心ありきとはいえ、亡くなった父の跡を継ぐと決めた以上、コハクはなんとしても卒業しなければならない。
 その年の初秋、睡眠を削って論文を書き上げ卒試に適ったコハクは、雪花亭へと帰ってきた。
 大学の学生寮を引き払い、雪花亭を母屋とする使用人用の別棟で、かつてのボイド一家の部屋がやはりコハクにあてがわれた。実に十数年ぶりの、スノードロップ家での暮らしが再び始まる。
 十年前、リィンセルの両親、すなわちスノードロップ少尉とリリアナ夫人の婚礼を最後に、長らくコハクは雪花亭を訪れていない。厳密には、生活していたのは七歳で母を亡くした次の年、寄宿学校に入る十六年前までだ。以来、かたくなに休暇にも父のもとへは帰らなかった。コハクにとって欠くことのできない恩義がある、名付け親で教父のスノードロップ少尉に関わる祭礼だけは例外で、結婚からほんの数年後に産褥で亡くなったリリアナ夫人とは、婚儀の日に一度会ったきりになる。
 コハクの母のひとつ年下のスノードロップ少尉は、コハクが生まれた時は十代なかばの少年貴族だったのだから、今になって思えば、すでに白雪公の継嗣としての自覚をお持ちの聡明な紳士でいらしたということだ。年端のいかないうちから大人びているのは、少尉の一粒種のリィンセルといい、そういう血筋のものらしい。
 懐かしい部屋は、十年前から、いや、もっと昔のある時点から動いていない。
 コハクの母アルマが死んだあと、ボイド一家の時間はずっと止まったままだ。
 あせた壁紙の色、床の傷、くすんで煤けたカーテン……。時間は止まっているはずなのに、部屋は確かに退色し、経年に飽かせて劣化しているのが、コハクを妙に落ち込ませた。
 アルマの死後、イヴォークは部屋をなんともいじらなかった。壁紙の張替えどころか、額絵の位置さえ少しも変わらない。そのせいで、まだらに日焼けした壁はひどくみずぼらしかった。因業なことに、コハクの依怙地は父ゆずりだ。
 アルマの喪失を認めないごとくに後半生を過ごしたイヴォークは、それを悔い改めないまま自分も冥籍に入った。
 コハクの父が、死後に母と同じ場所へ逝けると思っていたとは考えにくい。父の依怙地とはそういったものだった。
 部屋に残された父のわずかな遺品を除けば、旅行カバン二個分がコハクの荷物の全部で、片方の一個は本が詰め込まれていた。荷物の一番下、人から譲られたせいで無下にできない聖書を引っぱりだしては指先でつまんで、目につかない納戸の奥へ厳重にしまいこむ。
 それほどまでに聖書を厭うても、祭壇を捨て去ってしまうことはできない。コハクにできるのは、神と天使を遠巻きにして眺めるぐらいのことだ。それは厳密には信仰ではないだろう。あるのはただ、言い訳めいたものだ。
 その日の午後には、別棟と渡廊で通じる母屋の雪花亭の階下へと赴き、コハクはまずエヴァグリン夫人の仕事部屋に顔を見せる。
 葬儀の前後はサフィルと同じ使用人用のお仕着せで間に合わせたが、コハクが大学に戻っている間に夫人の手で直された、執事のフロックコートが仕上がっていた。
「イヴォークより背が高くなっていたなんてねえ」
 しんみりした口調の夫人は、コハクの肩にフロックコートを着せかけて涙ぐんだ。
「おかげさまで。あつらえたようにぴったりです」
「そうしていると、イヴォークというよりアルマみたいだわ。体つきはずいぶん違うけれどね」
「自分が物心つくころにはもう、母は病がちでしたから、痩せた小さな姿しか覚えがありません」
「この雪花亭に初めて連れてこられたときから、アルマは痩せっぽちの女の子だったわ。イヴォークったら、まだお小さかったハクロ様の遊び相手を探しにロンドン港までわざわざ出かけていって、東洋貿易の船にいたアルマを見つけてきたのよ。ハクロ坊っちゃまに風邪などひかせないよう丈夫で働きでのある子どもを探してくる、って言ってたのにねえ」
 懐かしさのあまりか、エヴァグリン夫人はこれまでよりいっそうおしゃべりだった。
「ハクロ様の遊び相手というなら、男児を探してくるものでは?」
「ええ、始めはそのつもりだったでしょうよ。それが、長い船旅で疲れ切ったアルマが、あんまりみじめで可哀相に見えたのね。それで女の子にしたんだわ」
 親世代の人だからこそ聞ける話だ。もとよりイヴォークは、夫婦のなれそめなんぞけっして口外しない四角四面な父親で、夫人の語る昔話は一人息子のコハクも初耳だ。
 帰省を避けていた年月を埋めるように、ほかのことも聞いてみたかったが、ちょうどそのとき、家令のアダムシェンナが女中頭の仕事部屋に現れ、開け放した扉をわざわざノックした。
「テス、お邪魔するよ」
 さしもの家令も、長年の僚友たる夫人の愛称で呼びかけるときは態度が練れている。
「やあ、コハク。早速だがね、執事の役を果たしてくれまいかね」
「どうぞ、お任せください。いかようでしょうか」
「リィンセル姫様が、パークの人夫小屋へお出かけになったまま戻られないのだ。君がこちらまで連れ帰ってくれ。お優しいのは大変結構なのだが、そこらをウロウロしている犬やら猫やらをあまり構いつけられるのも困りものだ」
「承知いたしました。では、自分がまいります。―― エヴァグリン夫人、ありがとうございました」
「いいのよ。じゃあ、しっかりおやんなさい」
 二人の年長者にあいさつを残し、コハクは階下と地上をつなぐ裏口の階段をあがって外へ出た。
 木立の中の散歩道を抜け、パーク側にある人夫小屋へと歩いていく。踏みならされた道の土は湿り気を帯び、ややぬかるんでいた。
 遠目に、小屋の前では、黒檀色の髪をわける繻子の飾り帯と亜麻の衣装の裾がひらひらと白い蝶々のように舞っている。走る犬を追いかけては左へ行き、猫と戯れては右へ揺れる。喪中のスノードロップ家だが、忌があけたら喪服は脱ぐものだった。間違いなく白雪姫様のリィンセルだ。
「―― 姫様! コハクであります、お迎えにまいりました」
「あら、もう? せっかくこの子たちと会えたのに……」
 小一時間ほど戯れてもまだ名残惜しそうに、まとわりつく茶色の子犬を手元で撫で転がすリィンセルを、コハクは忖度せずさっと腕に抱き上げた。ぬかるんだ泥道を歩かせて、女主人のおみ足と白絹の靴をみすみす汚すのは、新品とはいえ執事の名折れだ。
「次もおいしい食べ物を持ってくるから! いい子にしてるのよ!」
 律儀にしばしの別れを告げるリィンセルの慰撫の手と離された子犬や、気位の高い猫たちも、まだまだ遊び足りない様子だったが、幼い女主人をかかえたコハクがもと来た道へまっすぐ逆戻りするあとは、知らない人間を警戒して追ってこない。それに、人夫小屋で面倒を見ている野良の犬猫はおもにパークが縄張りなので、雪花亭のあたりにはほとんど近づいてこなかった。
「ご苦労ね、コハク。執事の上着がよく似合っていてよ」
「恐れ入ります。姫様がお戻りにならないので、アダムシェンナ殿が心配しておられました」
「だったら、うちで犬や猫を飼えたらどんなにいいかしら。パークにいる子たちはうちの人夫小屋で世話してるから平気だけど、ふつう野良は市警さんに連れてかれちゃうのよ。だから心配なのに、オクタビオは番犬でも気が進まないみたい」
「恐れながら、姫様。自分もアダムシェンナ殿に同意いたします」
「どうして? 犬はキライ?」
「犬に限りません。動物自体があまり……」
「コハクは大学で研究をしてたくらい、植物のほうが好きだものね。そうだわ、帰ったら温室でお茶にしましょう。ヴァイオラがスコーンを焼いてくれたのよ。コハクもいらっしゃいな」
「言をお入れいただけるのであれば、番犬よりも先に厨房奉公人を雇い入れられたほうがよろしいのでは? 貴族の邸における、階下の者の役割は厳にして分けられるものと聞いております」
「わたしが雪花亭のあるじになったら考えるわね。使用人を少なくするのは、亡くなったお父様のやり方だもの。エヴァグリン夫人も、人手が足りないってよくこぼしてるし」
 それとなく、女中のヴァイオラが厨房仕事にまで手を出していることを指摘したが、さすがにこの女主人は幼くともご英明にあられて、コハクの言を容れるでも斥けるでもなしに聞き流した。
「コハクは背が高いわね。遠くまでよく見えるわ。お父様とどちらが高いかしら。……ほら、ごらんなさいよ。パークに移動サーカス団のテントがきてる! どうりであの子たちが落ち着かないと思ったら!」
 あの子たちとは、さっきの犬猫のことかとコハクは思いつつ、はしゃいだ様子の白雪姫様を腕に、雪花亭へ帰り着く。
 玄関ホールに降り立ったリィンセルはさっそく、「コハクは温室のボイラーの具合を見てちょうだい。わたしはお茶の用意をさせてくるから」と言い置くやいなや、あっという間に邸の奥へ走っていった。
 父と不仲だったコハクとは違い、あんなに幼いうちにごく近しい肉親を亡くしてふさぎ込んでいないかと心配したが、リィンセルに年相応の子どもらしさが見出されて、コハクは少しホッとする。
 コハクにとって、過去の雪花亭での記憶の中でも、鳥籠のような形の温室《オランジェリー》はことさら懐かしい場所だ。
 いちばん天井高のある鳥籠中心に植わった熱帯植物のガジュマルの大木は、温室の形に合わせて枝をうねらせ、ガラスごしに外から見ると、鳥籠をいっぱいに満たす緑葉が複雑な紋様を織っていた。
 あのころ、執事の役しか眼中にない父と、病に臥せった母と、ほかに構ってくれる人もなく、幼かったコハクの居場所は温室ぐらいのものだった。まだエヴァグリン夫人の良人《おっと》ジョゼが健在で、炉で石炭を炊き、暖まった空気を温室中に張りめぐらせた管へ流して適温に保つのが彼の役目だった。父と縁の薄かったコハクは、ジョゼにずいぶん世話になったのを思い出す。ボイラーや自動車、電話といったものが邸に導入される前の時代だ。
 数年越しに鳥籠の温室へ足を踏み入れたコハクが、昔の記憶を頼りにかつての炉があった場所へ回ってみると、レンガ造りの炉台がきれいになくなり、金属で出来た武骨なボイラーが据え付けてあった。
 石炭の炊き方はジョゼに仕込まれていたし、ボイラーは大学の研究室でいじったことがある。コハクは温度計を確かめながら貯水槽のレバーをひねり、ジョゼから聞いた温室の適温に合わせた。
 ジョゼの几帳面さもあって、年中暖かい鳥籠の温室でコハクは植物の世話をする以外にも、一人で読み書きを勉強したり、雪花亭の書斎から持ち出した図譜を読んだりした。ほかにすることがなかったのもあるが、コハクがいつも温室で何か書いたり読んだりしているのを見たスノードロップ少尉が、コハクを勉強好きな子どもと思ったらしく、寄宿学校に入れようと言い出した。
 執事の息子に過ぎず労働者階級出というほか、ただでさえボイド家の男はいわくつきだ。紳士階級の子息ばかりの寄宿学校への入学はとうてい無理筋だろうと思われたのに、帝国に相並び立つふたつの公爵家の片翼、ベニントン公爵たる白雪公が後ろ盾とあっては、無理だろうが通るものらしい。
 特別扱いの入学となると学校で孤立するのはあきらかで、最初コハクは気が進まなかったが、そのころにはいよいよ儚くなっていた母がついに早世し、相次いでジョゼが物故したのもあって、雪花亭を離れる口実に寄宿学校へ行くと翻意した。身近な人を立て続けに亡くした直後、寡黙で近寄りがたい父と一緒にいるのは、子ども心にも気詰まりでしかなかった。
 ジョゼは、新規好みのスノードロップ少尉が馬車と替えた、そのころ出回り始めたばかりの自動車の運転を誤って亡くなっている。エヴァグリン夫人は、今でも自動車が苦手だという。
 鳥籠の温室を流れる水路は、パーク側の溜池とつながっており、循環しながら植物に給水するしくみになっている。清涼な水音を聞きながら、かつてチビのコハクが勉強をするときに使っていた折りたたみの椅子と机がいまだ残されているのを見つけて、それらを広げているところへ、ローズオンブレイ医師とサフィルを伴いリィンセルが現れた。しんがりのサフィルは手袋をはめた両手に、茶器を一揃いと焼き菓子の乗った銀盆を捧げ持っている。
 折りたたみ椅子と机の備えがあるのは、この鳥籠の温室が、談話室《コンサバトリー》を兼ねるものだからだろう。
「さっきパークにいたサーカス団、印度から来たのですって!」
 跳ねるように駆け寄ってきたリィンセルの、両脇に手を差し入れて軽々と持ち上げたコハクは、やや高さのある折りたたみ椅子へと座らせた。
「姉さが、昼に市場まで買《け》え出しに行かさったでな。通りがかりにいろいろ見聞してきたんじゃて。ずいぶんでっけえ荷馬車がいっぺえことあったば、見世物の象か虎がおるんやなかろうか、て言わさったもんだで、姫様がこのはしゃぎっぷりですだに」
 双子の姉のヴァイオラといい、公爵家の使用人とはとうてい思えぬサフィルのきつい訛りは、長々聞かされるといっそう珍妙だ。コハクの内心の評を知らぬように、サフィルはすまし顔で紅茶をカップに注いでいる。黙ってさえいれば、色濃い肌に銀糸の髪と蒼い瞳のサフィルは、見知らぬ遠い異国の香りをただよわせる神秘的な風貌だ。
「象が見られるといいわ! お父様は昔、印度にいらしたことがあるのよ。そのとき、印度人の水夫に言って象の背に乗せてもらったのですって! とても楽しかったっておっしゃってたわ」
 象に乗ったというのは、無鉄砲で上調子な性質が散見されたスノードロップ少尉らしい話だ。
 見慣れた犬猫とはまた違い、珍しい象や虎とお近づきになれるかもしれない機会とあっては、大人びているリィンセルも興奮を隠しきれないようだ。
「サーカスも結構でございますが、今日はガリア語の授業の日ですよ。象を見に行かれるのであれば、お勉強のあとになさいませ」
 浮き立つ空気をだいなしにする口調で、ローズオンブレイが水を差す。リィンセルが、「そんな言い方しなくたって」とふくれっ面で抗したのはもっともだ。
 ローズオンブレイは医業が本職だが、スノードロップ家ではリィンセルの家庭教師《チューター》として務めている。医師は紳士階級に属するとはいえ、知的職業だろうが労働で口に糊するものは、不労所得者の地主や貴族とは歴として区別される。
 貴族令嬢の幼年教育には女家庭教師《ガヴァネス》を雇い入れることがほとんどの中、ローズオンブレイが白雪公の嗣子姫の傍近くに置かれたのは、リィンセルの亡母、故リリアナ公爵夫人の遠縁だというのが大きい。亡きリリアナ公爵夫人は、かつて中世アルビオン王国が海峡を隔てた欧州大陸へ版図を広げたおり、小アルビスと呼ばれたブリタージュ公国の、ルメール地方を領する貴族プティブルトン伯家の出身だ。プティブルトン伯家といえば、前ビーフィッド王朝時代にアルビオンからマーガーレト王女が輿入れしている。その伯家の遠縁で紳士階級のローズオンブレイの身元は確かなものだったし、古ガリア語にも堪能な博識を買われての抜擢だった。
「へえへえ、お二人とも、茶でも飲んで落ち着いてけろ。先生《せんせ》は、そげな意地の悪りぃ口をきくもんじゃなか。姫様は、お勉強もお仕事のうちでごぜぇますよ」
 唐人の絵付けをされた東洋趣味《シノワズリ》の白磁のカップを左右の手に、サフィルが割って入る。
「んだば、『紳士』らしゅうにコハク様もお座りになってけろ。おらぁ、姉さを手伝ってくるだに。あと片付けばお願《ねげ》えしますだ」
 洗いざらしのクロスをかけた折りたたみテーブルの上へ、銀盆にあったものを並べると、サフィルは慇懃に一礼し温室をさがる。言葉遣いはともかく、幼少時から今日まで雪花亭に仕えたサフィルの礼儀作法はしっかり身についていた。こうなるとむしろ、訛りに限って矯正されなかったのが腑に落ちない。
「では、今日の授業が終わったら、執事殿が姫様にお供したまえ。この家の執事は白雪公の従者でもあるのだからな。夕食に間に合うように帰ってきたまえよ。なんなら、サフィル少年も連れていくといい。今夜は邸に客がないからな」
 ローズオンブレイ医師は言いながら、知的職業に特有なやわい指先でお茶菓子のスコーンを半分に割った。
 学校の休暇中は決まって、数少ない学友の生家である地方の大地主のところで過ごしたコハクは、執事の息子とはいいながら、みずから紳士のごとくふるまいもし、あるいは困惑まじりのひとびとがみずからの差別感情を知られたくないがために紳士のごとく扱われ、時として労働者階級の出自ゆえに軽んじられようがわきまえていた。新品執事となった今、紳士であり労働者でもあるコハクの立場は、やはりどちらともつかないままだ。
 お茶のテーブルに執事が同席したり、あるいは乳母ではなく従者の男に抱き上げられたりすることに、リィンセルがいっこう頓着しないのは、コハクが紳士のはしくれだからというより、スノードロップ家の気風だろう。コハクを理非曲直おりまぜて寄宿学校に入れたことといい、スノードロップ少尉とその娘のリィンセルは、貴族ゆえの鷹揚か、それとも貴族にしては庶民的なのか、かなりさばけた人柄の父娘はつくづく気質がよく似通っている。娘のリィンセルのほうが父の少尉の上調子よりよっぽど落ち着きがあるのは、おそらく母方のリリアナ夫人から受け継いだものだ。
「先生、うちはまだ喪中なのよ。お客様はお招きできないわ。料理人がいないんだから、いきなりだとエヴァグリン夫人とヴァイオラがびっくりしちゃう」
 先だってコハクが指摘したばかりの、厨房奉公人のことがここでも取り沙汰された。雪花亭はさほど大きな邸ではないし、スノードロップ少尉を欠いた今、六人いる使用人がお仕えするのはリィンセルただ一人だ。ちょっとした大家族の口を賄うかっこうのエヴァグリン夫人をはじめ、客さえなければじゅうぶんな人数だろう。
 議席を持つ貴族が、春から夏の間、おもだった使用人ごと一家こぞって煙霧京にかまえた町屋敷へ居を移し、帝都での社交に明け暮れるのは、中央議会の招集に合わせての慣例だが、本領地ベニントンと現地の城館を縁者の管理人に任せてまで年中雪花亭に在し、使用人の数を限るスノードロップ家は特殊だった。
 スノードロップ家および白雪公が、王宮に接した煙霧京の荘園で通年を過ごすようになったのは、王家の守護のためといわれているが、はっきりした理由はわかっていない。
「コハクの手が空いたときにでも、温室の世話をしてくれないかしら。枝打ちもなにもしてないでしょう?」
 ジョゼ亡きあとに荒れ放題とはいかないまでも、放埓に枝を伸ばした植物を見上げるコハクの横顔に、リィンセルがさりげなく言った。
 パークと荘園の管理は、先ほどの小屋にいる人夫たちが担っているので、温室にも多少かれらの手が入っているようだ。
 ここが鳥籠の温室だから、というわけではないが、パークをねぐらにする野鳥がガラス張りの温室のところどころに設けられた通気窓から入り込み、緑なす枝葉のあちらこちらに宿ったり、あるいは飛び交っている。
 大学の研究室でしていたように植物を丹精することは、執事となればもう機会がないと思っていただけに、リィンセルの提案は、コハクには存外にして嬉しいことだった。

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プリンセス・スノードロップ

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