【始祖編】12.

 ファーロン・ボイドには息子がなかった。
 キャラバンにいるとき砂漠で娶った妻が一人娘のシェヘラザードを産んだあと、アルビオン王国のニヴァリス家に腰を落ち着けるころには、幼い娘をファーロンに残して妻とは死別していた。
 アルビオンのマネット領主ニヴァリス家の、若き当主ナサニエル・ニヴァリス卿は、砂漠を隔てた東方諸国と交易するキャラバンに随行し、大陸各地で珍しい植物を採取する旅に出た。このキャラバンに養われ使い走りをしていたのが、孤児のファーロンだった。
 世間知らずのナサニエルはそのぶん人柄がよく、植物のことになると損得を抜いてしまうのはやはり、庶民とは違うところだ。
 ナサニエルの目の前で、十字軍の騎士から、慈悲の十字短剣<ミセリコルデ>を奪ったファーロンの、子どもながら自身にふるわれる横暴のあしらいに慣れたやり口は、お育ちのいい青年に衝撃を与えるにはじゅうぶんだった。
 ナサニエルは、薄く板状に切り出した水晶を研磨して木枠をはめ、それを箱型にした『水晶の小匣』と呼ばれる携行用温室を作り、それに採取した植物を土ごと小分けして納めた。これにより、印度奥地や明朝国の高山部にしかなかった茶葉の木、あるいは綿花の苗木といったものを、アルビオン王国へ持ち帰ることに成功した。『水晶の小匣』がもちいられる以前は、航海中に枯れることがほとんどだった。
 大陸中東部のターキル国では、新種の待雪草も発見した。
 大陸の東の果て、明朝国にキャラバンがたどり着いたところで、長旅の疲れからかナサニエルは熱病に罹った。偶々、交易相手の大商人、藩氏の商館で倒れたナサニエルは、そのまま藩氏の世話を受け、療養した。このときナサニエルを手厚く看護したのが、藩氏の娘のひとりの梅蘭《メイラン》だった。
 異国で客死の憂き目に遭った、病身のナサニエルに憐れをさそわれたメイランは、アルビオンに嫁ぐことを決め、大陸の西のはずれにあるアルビス島へと、船で帰国の途につく伴侶になる人とともに旅立った。彼女は老いてのち、その生涯の最期に良人の国で葬られた。
 当初の予定どおりであれば、明朝国から海を隔てた極東の島国ヤーパンに渡るつもりだったナサニエルの意を受けた藩氏は、ヤーパン原種の花……アジサイの株を入手し、懇意のキャラバンに依頼して娘の婚家にまではるばる届けさせた。ナサニエルとメイランの結婚から、十年あまりの時が流れていた。
 アジサイの株をたずさえたキャラバンの若者ファーロンは、アルビオンのニヴァリス家を訪ねた。
 十年越しの再会に、かつてキャラバンでともに旅したころは子どもだったファーロンが、まだ少年とも呼べそうな歳でやもめにまでなり赤子をつれてあらわれたことに、ナサニエルはひどく驚いた。ナサニエルの子、メイランが産んだエンドリューとオルペの兄弟が、ちょうど昔日のファーロンの面影と変わらぬ年頃だったから無理もない。
 アジサイの株を受け取ったのちもナサニエルはファーロンを引き止め、赤子をかかえての旅の危うさを口実に、ついにはエンドリューの傅役として、ファーロンは娘とマネットの館に居着くことになった。
 母親が遠き唐人の国より嫁した人であったことで、継嗣のエンドリューとの相続争いを避ける理由で、このころ次男のオルペは、兄とは二親を同じくしながら修道院に送られた。
 エンドリューは、物思いに耽りがちな御子だった。母親が唐人というだけで、なぜ自分をあざ笑う人がいるのか。仲の良かった弟は、なぜ修道院に入らねばならなかったのか。
 傅役のファーロンに、エンドリューは答えを求めた。
「明日の仕事を、今日のうちにすることが、立派なおこないと思われますか? 修道院におられるのは弟君であって、あなた様ではありませぬ。人は人でしかありえず、自分以外のものにはなれぬのです。今なすべきことをなし、いつの日かなせることに備えられませ。今はどうにもならないことに、今のあなた様の御心が惑わされてなんになりましょう」
 得心のいく答えではなかったが、ほかにできることもない。エンドリューは不承不承、傅役の言を容れた。
 エンドリューが幼いうちは、傅役のファーロンはずいぶん大人に思えたが、実際の歳はひとまわりも離れていない。長じるにつれ、弟オルペとは別々に暮らすエンドリューに、ファーロンは気心の知れた男兄弟のような存在になり、エンドリュー坊っちゃまがやがて若旦那様と呼ばれるころには、傅役のファーロンもニヴァリス家の執事となっていた。


 シャフリヤールというのは養父からもらった名だ。
 昔は名前なんぞなかった。
 ただ、黒い子、とだけ呼ばれた。
 赤銅色の肌から、陰で『悪魔の子』とささやかれているのは知っていた。うす汚れた憐れな路上の子どもを悪魔と呼んで蔑んでは、天上の神とやらが説く慈悲にあたわないと考えるお綺麗な人々は、外聞を重んじた。
 シャフリヤールの養父ファーロン・ボイドは、昔キャラバンにいたころは砂漠の日差しに焼かれて、色濃く乾いた肌をしていたという。
 王都ロンドンの片隅でシャフリヤールと出会ったときのファーロンは、定住したアルビオン王国の霧濃い都で黄味がかったもとの肌色を取り戻していたが、厳しい砂漠の気候に痛んだその身は歳より老けて見えた。
 貧民街を通りがかった養父の懐中から財布をすったシャフリヤールは、すぐさま襟首をつかまれて宙吊りにされた。気づけば財布は元の持ち主の手に戻っていて、養父はスリをはたらく子どもから財布をすり返したのだった。これで養父ファーロン・ボイドの生まれ育ちがうかがえようというものだ。
 ファーロンの身なりから『お綺麗な人々』とばかり思い込んでいたシャフリヤールは、自分が捕らえられたことや、相手が悪かったことがすぐには飲み込めなかった。
「おまえ、足は速いかね?」
 抜け目なく訊いたファーロンのどこか間延びした調子で、我に返ったシャフリヤールが宙吊りのまま虚しい抵抗にも関わらず暴れると、今度は「体は頑丈そうだ。よろしい」と勝手に値踏みされてしまった。
 貧民街にたむろする浮浪児は業突く張りの餓鬼ばかりだが、いつも腹を空かせているせいで痩せ細り、陰惨をきわめる環境で、体になんらかの不具合をかかえる子どもが多くいた。
 五体満足と見られたシャフリヤールは、ちっぽけなスリの子どもがどうあがいてもいなしてしまうファーロンに辻馬車へ放り込まれ、貴族の邸へ連れていかれた。
 財布は取り返したくせに、「手癖の悪さは働いて返してもらう」とうそぶいて、シャフリヤールを風呂に入れ、使用人用のござっぱりしたお仕着せをあてがい、腹いっぱい食べさせた。
 それからはずっと、ファーロンに従って執事の見習いをしながら、シャフリヤールは十字短剣の鍛錬を重ねた。

 野垂れ死するしかない浮浪児を拾い上げたファーロンの親切に、シャフリヤールは心酔していた。
 その一方、ファーロンの一人娘シェヘラザードは、瘦せぎすで短躯のシャフリヤールを、昔からひどく嫌っていた。
 禍々しく赤銅色に染まった顔の中に、剃刀で細く切れ込みを入れたような、爬虫類をおもわせる目つきのシャフリヤールは、およそ人好きする容姿ではない。短躯なのは、乳幼児期の栄養不良のせいで、路上育ちにはよくあることだった。
 のちに義理の姉となるシェヘラザードが、盗みを働いて生き延びてきたうす汚い浮浪児を蔑み、どれほど無礼な態度だろうが、恩人ファーロンの娘と思えばこそ、シャフリヤールは表だって対立はしなかった。でなければ、生来から気性の激しいところのあるシャフリヤールは、かの娘の不愉快なふるまいに激昂して八つ裂きにしようが不思議はなかった。
 年頃になったシェヘラザードが、僭越にも若旦那様のエンドリューに岡惚れしていることが明らかになると、いずれの使用人も、恩義ある主家のかたがたにどうにかこのことを悟られまいと腐心するようになった。
 シェヘラザードがかように傲岸な思慕をいだくに至ったのは、主家の奥方様のメイラン夫人が唐人であったことが大きく作用した。
 唐人が見初められて、傅役で執事の娘が劣るはずがない、との言い分を耳にしたシャフリヤールは、シェヘラザードを心底から軽蔑した。
 エンドリューは、誰の目にも謹厳実直な青年だった。そのエンドリューが、傅役の娘であれシェヘラザードをいとしく思うなら、身分違いだろうが領主夫人にだってなれよう。しかし、若旦那様にその気のないうちから、傅役の娘のほうであれこれ意図をめぐらすのは性急すぎる。
 執事ファーロン・ボイドの娘のシェヘラザードだが、幼いころはかつてのエンドリューやオルペと同じく館の育児室で乳母に世話され、ニヴァリス家の厚意で家庭教師もつけられた。それが彼女に使用人としての分別を失わせ、階上の令嬢ごとく勘違いさせる因になったのではないか、との思いは、シャフリヤールのみならず、階下の使用人全員に共通してにあった。
 使用人どもの密かな働きが功を奏したか、大陸のブリタージュ公国を攻略した若旦那様のエンドリューは、調和王の王女から降嫁を賜り、公爵位を叙爵されるほどの栄誉に浴した。
 王女を奥方様にお迎えするとなれば、稚拙なシェヘラザードを説き伏せるのはそう困難なことはなかった。使用人どもはそろって胸をなでおろした。
 シャフリヤールは、かの恩人ファーロンの娘が自分をこうまで嫌うのは、ひとえにエンドリュー様が美丈夫であられ、みなども自慢の若旦那様であるからだろうとの思いが、シェヘラザードの悪口雑言のおおかたは聞き流せる拠りどころのひとつとなっていた。
 シェヘラザードがみずからの敗北を、王女の身分に抗えなかったお気の毒な若旦那様だと決めつけて、それをシャフリヤールが見抜いたのは必然だろう。
 それまで頑なに苦言を呈するの避けてきたシャフリヤールがついに、ファーロンへかの娘の了見を知らせ、対処を願い出た。王女をお迎えするまでに手を打たなければ、口にするのもおぞましい暴挙をもってシェヘラザードが若旦那様を侮辱するかしれない、といったようなことだ。
 シェヘラザードはただちに他家へ奉公に出された。
 このとき、よそへ奉公に出すか、それとも尼僧にするかでファーロンは迷ったようだが、おりもおり、エンドリューの朋輩たるスタブリスも、ブリタージュ攻略に従って新たな所領を得たこともあり、使用人を増やすと聞きつけて、シェヘラザードを預けることにした。やはり父親の情から、出家させて僧院に閉じ込めるのも可哀相なら、縁故のないところへ一人娘をやる気にもなれなかったらしい。
 のちのち、ファーロンの温情はまったくの裏目に出た。

 古来から、密通と名のつくものには手引き役が必要だ。
 ベニントン公爵となったエンドリュー・ニヴァリス=スノードロップの夫人タマラが、一度は謀反の罪に問われたスタブリスと通じることができたのは、奉公人のシェヘラザードが手引きしたからだった。
 調和王の御前での馬上試合の席で、一児を持つ人妻のベニントン公爵夫人と、公爵のごく親しい僚友として知遇を得たタマラとスタブリスが、いつごろから気脈を通じたかは定かでない。
 伝言や付け文のやりとりから始まり、やがて王都あたりで逢引する段になると、場所の手配や使用人に心付けを握らせての口止め、主人スタブリスの待つ部屋まで公爵夫人のタマラを案内する役目など、シェヘラザードはそれこそ有能な執事のごとく、すべての采配を如才なくやってのけた。
 スタブリスの館で奉公するシェヘラザードが、主人のもとへ毎日のように届けられるさまざまな手紙を仕分けし書斎に置いておくのは仕事のうちだったし、父ファーロンのいるベニントン公爵の邸を一人娘の彼女が訪ねるのも、むろん自然なことだった。
 公爵夫人のタマラは、シェヘラザードの宿下りを指折り待ち焦がれるような具合で、もしシェヘラザードがファーロンの娘ではなく息子だったら、こうも上首尾に事は運ばなかっただろう。
 皮肉なことに、タマラとスタブリスによる不義密通の過程は、かれらの子、ソロモンとダビデの異父兄弟が、たがいを慕ってひそかに手紙をかわしたさまとよく似ていた。
 公爵夫人タマラの不貞が世に知られ、僚友スタブリスの簒奪がおおやけになったあと、エンドリューのふるまいがいかにも寛容で潔かったのは、寝取られ夫の醜聞をはばかったためといわれている。
 再婚したタマラ夫人は、二人目の夫スタブリスのもとでシェヘラザードを侍女にし、次の年には男児ダビデをもうけた。
 エンドリューから二代にわたり、公爵家継嗣ソロモンの傅役を務めるファーロンは、娘の所業を恥じたが、ほかでもない主人エンドリューにきつく慰留され邸に留まった。
 娘との和解の難しさを痛切に感じたファーロンは、シャフリヤールを正式に養子とし、執事の後継となることを求めた。
 これから約十年後、同じ母から生まれたソロモンとダビデの兄弟は、十字短剣でたがいの心臓を傷つけ、雪の降る中ともに死ぬことになる。

 タマラの無残な死の後、スタブリスにはレイントン公爵位とセングレン姓が新たに与えられた。
 未遂に終わった謀反の件といい、小アルビス人の息子スタブリスは、僚友の奥方である公爵夫人を簒奪したあと、曲がりなりにも王女を妻に迎えたというのに、ビーフィッド王家から疎んじられたが、不貞の王女タマラが王家への呪詛を吐いたことが重く見られ、タマラを死に追いやった咎人、エンドリュー公の執事ファーロン・ボイドが、法に則せば投獄刑であるところ、王家にかかる災禍を払ったとみなし、エンドリュー公預かりの蟄居に減刑されたことに伴って、スタブリスには爵位と新しい家名を授けることで彼の名誉を慰撫しようとの、調和王のはからいだった。
 この後、調和王は退位なされ、咎人ファーロンの減刑には恩赦も加味された。
 スタブリス公がやもめとなって一年経たないうちに、彼の後妻に迎えられたのはシェヘラザードだった。
 タマラが葬られたのち、侍女を辞したシェヘラザードは、スタブリス公のセングレン家を去り、咎人となった父のいるスノードロップ家にも戻らなかったので、彼女を知る人々には、いずこかのお屋敷で使用人なりして働いているのだろうと思われていたが、実のところ、シェヘラザードはスタブリス公が王都に所有する小宅に囲われ、貴婦人同然の暮らしを送っていた。
 そのシェヘラザードがスタブリス公の御子を身ごもったので、改めてセングレン家に迎え入れ、後妻として遇することになったという。
 話を聞いたシャフリヤールは激怒した。
 このころ、スノードロップ家の執事は、ファーロンの蟄居を機に役を引き継いだシャフリヤール・ボイドだった。
 咎人ファーロンの引退は、そのままエンドリュー公の早い隠棲にもつながる。
 爵位を継ぐため、修道院にいたエンドリューの弟オルペが数十年ぶりに呼び戻された。
 還俗したオルペは、地方領主の令嬢と婚約した。
 相続に関わるさまざまなできごとにスノードロップ家の誰もが多忙な中、飛び込んできたのがシェヘラザードの消息だった。
 ファーロンの養子となった今、シャフリヤールの義理の姉にあたるシェヘラザードの、あまりに厚顔無恥な身の振り方に、分別を失って邸を飛び出していきそうな剣幕の執事を、新たな主人のオルペは諭した。
「いずれわたしの子が生まれたら、傅役がおらぬでは困る。せめておまえの息子が、もう少し大人になるまで辛抱できるかね」
 元は修道士のオルペは穏健な人柄だったが、唐人の母を持ち、相続争いの憂慮から年端のいかないうちに家族と離された境遇が、かの人にただ神の御心に沿うだけの生き方を択ばせなかった。
 シャフリヤールの息子シオンはまだ幼かったものの、傅役や執事代理が務まる歳まで十年はかからない。
 以来、十年近くの歳月をかけ、いかにしてスノードロップ家と養父ファーロンの恩義に報いるべきか、執事シャフリヤール・ボイドの思惟は突き詰められていった。

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