スリル・ミー感想②

スリル・ミーが役者によって全く違う見え方をするという話を前回noteに書きました。これは客を何度もリピートさせるための商業的な戦略もあると思いますが、そのような多様な話を見せてくれるのは作品構造にもあるのではないかと感じました。

尾上×廣瀬ペアは大阪と名古屋で2回、その他のペアは配信で見ました。もっと早く見にいっていれば。悔しいです。

が、何はともあれ配信されたことは僥倖ですし、こうして全部のペアを見られたことに感謝し、忘れないうちに感想をつらつら書きたいと思います。CDを聴きながら。なお、筆者は「彼」にかなり同情的なので、そんな内容になってしまっている部分もあります。

死ぬほど長い文章ができてしまって愕然としています。いや、「きちんと文書にした」だけだから……。


・「隠された真実」―主題の提示と疑問、なぜ今明かされたのか

これは最後で言われる通り、動機は「彼と共にいるため」であることが、早くも冒頭から示されています。ただし、この「彼と共にいる」ことを渇望している様子は自体は歌だけでなくセリフでも分かると思います。過去に「彼」が突然消えてしまったことが2度あったということです。そのように取り残された状態になることを「私」は何より恐れていた、ということが冒頭で既に明かされているわけです。

また、ニーチェの言う「永遠回帰」も示されていると思います。パンフレットによれば、「すべてのものが同じ順序で永遠にくりかえす」ことである「永遠回帰」がニーチェの思想の根幹にあるようです。この仮釈放審理委員会は、5回目です。今までも同じように解放されることなく無意味に繰り返されていたということです。「私」はそのような無意味な行為に耐え忍んでいる人間、と見ることができるでしょう。これは最後に「彼」が刑務所のくらい無意味な空間を恐れ、「死にたくない」と歌っていたこととは大きな違いではないでしょうか。この論理に従えば、「私」はある意味で「超人」に近いと言えるかもしれません。まあ、「彼」を途中で失う時点で「超人」ではないわけですが。新しい倫理も打ち立てていませんし。

しかし、一方で明らかにならない謎もあります。なぜ、5度目の正直で真実を話すことになったのか。「メガネを故意に落とした」ことを明らかにしたのは今回が初めてのようです。

ここから先は特に作品内に書かれておらず、妄想するしかないというのが面白い点だと思います。

個人的に、この仮釈放委員会、そこまで真剣に行っているか怪しいと感じるんですよね。猟奇的な殺人とか言っちゃってるし……。彼が今更最後のピースを話したから釈放されたと言うより、税金を無駄にしないためなのではないかと思いました。

ただ、他の意見として、例えば、「彼」がいつ死んだのか、「彼」が生きていた頃も釈放の審査はあったかわからないことから、「彼」が死んだからやっと真実を話すようになったのかな、という意見を友人からもらいました。せや、彼死んじゃったから私も思い出の場所で死ぬわ〜みたいな。それはそれで美味しいです。


・僕にはわかってる―マッチのこと、わかってるのは「誰」?

このシーン、めっちゃくちゃ好きなんですよ。タバコの火をタバコを吸わない「私」からもらう。「私」はちゃんと準備している。ここだけで、「私」が「彼」をよく見て先回りしている様子とその執着がわかってしまう

ただ一方で、そのマッチは最後投げ捨てられるのが面白いです。初めに見た尾上「私」はマッチを目で追っていましたから、このマッチは「私」の気持ちの象徴なのかなと感じました。「マッチが全てに火をつけた」の語りも併せて考えると、「私」の気持ちが全ての狂いの始めのようにも思えます。そして、そのマッチは彼に受け取ってもらうことはなく、都合よく利用され、投げ捨てられる。それを表しているのかなと思います。深読みでしょうか。

また、ここのシーン、木村「私」はマッチのことは気にせず「彼」だけを見ていましたよね。マッチを「私」の気持ちの象徴と見るのであれば、木村「私」は別に自分の気持ちを相手が受け取ろうがそうでなかろうがどうでもいいように見えます。最後の99年計画と見事に一致しますね。木村「私」にとって本当は、「彼」を物理的に所有することだけが大切で、気持ちはどうでもいいのかもしれないと感じました。

そして、松岡「私」を見ていて思ったのですが、「彼」にキスされて置いて行かれた後、「僕だけだ、こんなにも強く深く君を求めているのは」とひと歌いしますが、これ実は自分に言い聞かせてる面もあるのかなと思いました。木村「私」や尾上「私」はそんなことなさそうですが、松岡「私」は表情からして、自分にもむけているのかなと思いました。「私」は果たして最初から自分の求めているものの不可能さに気がついていたのでしょうか。しかし、これは「私」による釈放のための語りであることを考えるとどうなのでしょうか。

・やさしい炎―倉庫を燃やすと言うこと

これは後輩に示唆を受けて思ったんですが、大学に行く前によく行っていた空っぽな倉庫を燃やすというのは面白いと思いました。過去を焼き消してしまうと共に、その過去は空っぽでもあるということですよ。しかも「空っぽのまま」であるか聞かれていますので、昔から結局空虚なものだったとも言えると思います。

え、後輩天才ですね。(スリル・ミーの文脈で「天才」とかとか使うとなんか括弧付きに見えますけど、そうじゃないです)ありがとうございます。

また、名前を呼ばれることを「私」は喜びますが、「私」は「彼」の名前を呼ぶことはないのが非常に悲しく、また「私」の残酷さでもあると思います。「彼」は「私」が何を求めているか理解している一方で、「彼」の自分自身を見てほしいと言う欲望を「私」が理解していなかったように見えるわけです。

それにしても「場所を変えよう」って言う場面。それぞれの役者によって、「もっと続けたいから場所を変えよう(木村「私」)」なのか、「見つからないうちに早く移動しよう(松岡「私」)」なのか、違っていいですね。

あと、今まで牛小屋燃やしたり資料室燃やしたりしていますが、資料室はまだしも、果たして牛小屋は空だったのでしょうか?牛は燃やされたりしたのでしょうか…?
それにガソリンをかけるの。ガソリンって揮発性が非常に高いから結構危険な気がするのですが。木村「私」はものすごく思いっきりガンガンかけてましたけど……。それからガソリンかけてる時のピアノの弾き方が異なっていて結構面白いです。

・契約書―崩壊の始まり

契約を持ちかけるのは「彼」側である、と言うのが面白いです。初見の時は「彼」が「私」を弄んでいると感じていましたので、いざという時の保険として「私」を巻き込むことを目指していたと感じました。
一方で、「彼」の行動を、親との不和と、試し行動として見るのであれば「私」を繋ぎ止めておくための頼みの綱にするため、安易なものに飛びついたように思われました。同様に「私」も彼が離れてしまうことを気にしていたことは冒頭から明白ですので、この契約に飛びついてしまったのは仕方がないことだと思います。ただし、この契約を結んでしまったことで、今後の二人の行動は全て契約に基づいたものになってしまったのだと思います。「私」が初めは求めていた「彼」の心も、「彼」が親に求めたような無償の愛などとは全くの対極にあるものです。契約以前はもしかしたら気持ちがあるのかもしれないと思えたものも、今後はただの利害になってしまったのだと感じました。

これは、ラストの「彼」の懇願でよく現れています。ここの「彼」が単純に「私」を利用しようとしていつものように恋心を利用しようとしたのか、そうではないのか。「血の契約を」と歌い上げられることによって、本心は何であれそれを利用する形にしか結局落ち着かない点が悲しく思いました。
(特に、大阪で見た廣瀬「彼」は作品の冒頭のキスの仕方と全く同じ調子でしたので、利用しようとしてるようにしか見えませんでした。が、配信の山崎「彼」は手を握りしめて必死だったので、これは心から懇願していそうだな、と思いましたが、「私」の表情から見るにもう契約としか捉えられていないように感じました。)

さて、この契約書は欠けた字のあるタイプライターで書かれます。つまり、完全な契約と言いつつも、実際は欠けのある不完全なものであると言えるのではないでしょうか。
また「かみの上」で誓う。これはニーチェが「神は死んだ」と言ったのとかけているのでしょうか。神ではなく紙によって保証されるようで面白かったです。それと血の契約。これは男色大鑑でもあった気がしますし、かなり中二病で面白かったです。そして、ペアによって「私」のハンカチで「彼」が指を拭いていたり、なぜか手を握るワンクッションがあったり(松岡「私」)、めちゃめちゃ怖がっていたり(尾上「私」)、逆に恍惚としてたり(木村「私」)して三者三様でよかったです。

・スリル・ミー―「私」の後悔

中盤の「スリル・ミー」の楽曲はどのペアも割と「彼」の関心が父と弟に向いている部分だと思います。
が、「彼」自身は彼の父親と同じことをしているようにも思いました。「私」と一緒にいるのに「彼」がきにするのは弟や父のことばかりです。これは「彼」を見ずに弟ばかり気にかける「彼」の父親と同じではないでしょうか。ただし、「私」は「僕の目を見て」と言葉で主張できるところが、そのように主張できない「彼」の幼さを際立たせているように感じました。

ところで果たして「私」は彼の欲望、誰かに自分を見てほしいこと、あるいは彼の抱える孤独感に気がついていたのでしょうか。後から気がついたのでしょうか。

尾上「私」が気が付いていたのかまでは確認できなかったのですが(ごめんなさい。傷ついた表情の廣瀬「彼」を凝視するのに2回とも必死でした)、木村「私」は全てが終わった後に、一応気遣わしげに「彼」の方を見ます。これは、その時から契約書を盾に欲望を満たしたことを気にしていた、と言うことでしょうか。松岡「私」の後悔の深さは、彼を床に倒してからの息遣いで感じました。しかし、その後悔のため息の後、松岡「私」はそのまま囚人ポーズに入ることから、後悔をしているのは刑務所に入った今なのでしょうか。当時は気がついていなかった可能性も感じられます。

では、仮にここで後悔していると考えると、その場での審問の「どうして自制が効かなかったのか」これはどの行動を指しているのかが非常に気になります。

子供の殺人にまでエスカレートしていったことなのでしょうか。確かにその告白の後、どのように殺人計画が立てられていったのかが明らかにされますが、しかし、個人的には、自分の欲を満たすために、契約の遂行を彼に迫ったことが「自制が効かなかった」ことだと考えているのではないかと思います。

いずれにしてもこのシーンは、「彼」の身勝手さだけでなく「私」の身勝手さも出ていて非常に好きです。客観的にみれば、この時の「私」の行動が「彼」の最後の何かを壊してしまったように思われます。(役者の演技にもよりますが)

二人の力関係の逆転は「私」が上にいて「彼」が壇の下にいることからもわかって演出としても大好きです。また、ネクタイの解き方、上着の投げ捨て方に差があって好きです。私は若干高圧的な松岡「私」が、「私」の強さを示していて好きです。

・計画―なぜ弟は殺さないのか、天才とは

なぜ弟を殺さないのかは、明示されていない
というか、さまざまな理由が可能性だけ表されています。まず、私にとって「共犯者」であることが重要だった可能性があります。最後の幻覚(あるいは写真)への言葉は「共犯者」であることからも、共犯者になるためには家庭内で片付いてしまような弟ではなく他の誰かである必要があります。

一方で、「私」にとって、弟の存在はむしろいてほしい存在だったのではないでしょうか。「彼」に会うため、情報を得るために弟を通して接触していることから弟がいなくては「彼」に会える保証がありません。また、家族と不和であるが故に「私」を構い、「私」を必要とする「彼」であるからこそ、弟は必要でした。「彼」には不安定さを抱えていてもらう必要があったのではないでしょうか。

また、「天才だ」、「お前の得意な仕事」など、「彼」は「私」を随所でほめます。これに皮肉めいたものを特に前田「彼」からは感じました。まだ「超人ではない」と言う意味なのか。あるいは、社会的に見ても得意なことがあるのが、ハリボテの「彼」にしてみれば羨ましかったのでしょうか。彼自身が得意なこと、特に法律系で得意なことが何かあるのか、今までの描写では描かれていませんので想像が広がります。(廣瀬「彼」の時は完全に鈍間な「私」を馬鹿にしているようにしか見えませんでしたが)

・戻れない道―どこから計画だったのか

どこから計画だったのか、全ては計画だったのか、あるいは失敗していることを誤魔化すために計画だったとしたのか、あるいは仮釈放のために計画であったことにしたのか

この疑問が生じるのは、最後の99年で「彼」を含めて観客が騙されていたことが明らかになるため、「私」の語りを信じられなくなるせいだと思います。正直、確実なことはこの脚本からはわからないと思います。

ただし、実際に殺人を実行する前に「戻れない道」を歌うことで、ここから計画は始まっていることを示唆しているように受け取れると思いました。
一方で、その後の「私」の取り乱しからは、単純に「私」のミスであった可能性が浮上します。特に、99年の「僕こそが超人だ」と言う発言は、この話が冒頭で「ゲームだったんです」と言っていたことを思い起こさせ、結局はただの才能のひけらかしバトルでしかなく、自分の失態は誤魔化さなくてはならなかった、とも受け取れます。
一方で「彼」のコロコロと変わる態度、それに対して対応を繰り出していく様子を見ると本当はいつでも計画を止める予定があったが「彼」の態度によって99年計画が実行されてしまった、とも読めます。

正直、私はそれはキャストによって違うものとして見てもいいのかなと思っています。

・眼鏡、脅迫状―家族のこと

これまた他人の感想ですが、眼鏡という高級品、しかも「私」が父に買ってもらった愛情の証とも言えるもので追い詰められていくのは「彼」にとって酷な話です。

そもそも、「私」が「彼」の孤独を理解していなかったのではないかと思います。家族に愛されているからこそ弟を殺すのを止める時に「彼も家族だ」と言って止められると思っていますし、他の場面でも「親父になんて言えばいい」「親父に打ち明けてきた」など、関係が比較的良好であることが伺えます。

ただし、弟の単語を意図的にいうか否かで、知っていたのかどうか、役者によって異なると感じます。しかし、仮に「彼」にとっての父や弟の重要性を知っていたのだとしても、知らなかったのだとしても、知っていて何もしなかったことが罪なのか、あるいは知らなかったことが罪なのかと言う違いはありますが、「私」の無神経さは変わらないのではないでしょうか。

・スリル・ミー―ラストについて

最後場面の問題は、「私」が見ている「彼」は何なのかと言うことと、スリル・ミーの意味だと思います

「私」が見ている「彼」は写真である、と言う人と、今の幻覚である、と言う人の意見がありました。これは正直どちらでもありうるのではないでしょうか。
彼の姿を見て「まってたよ」の言葉があることから実際にその場にいると感じていると解釈できるでしょう。
一方で、直前に「彼の写真」と言っているところから、服役中に死んでしまってからは見ることのできなかった「彼」をこうして久しぶりに見ることができた、とも受け取れるのではないでしょうか。

折衷案として、写真を見たことによって現実でもいるような気分になった、と言うのはどうでしょうか。なお、最後には「彼」のいない現実に戻ってしまうのが尾上松岡「私」で、戻ってこられないのが木村「私」のように思いました。

そしてスリル・ミーの言葉が何を意味するかが問題だと思います。「スリル」の言葉は作中で「彼」も「私」も使います。彼に取ってのスリルは犯罪でしたが「私」に取っては、となるとあの夜のことが思い起こされます。「私」が「スリル・ミー」と言う場面はあの夜の部分しかなかったと思います。つまり、結局「私」が今でも彼に求めていることは肉体的な関係だけなのではないか、とも読めてしまいます。

それだとあまりに「彼」がかわいそうなので、もう少し好意的に捉えるのであれば。
彼と行ったスリルを巡った駆け引き全般、それが「私」自身を「スリル・ミー」してくれるものであったと読み取ることもできるのではないでしょうか。ただし、その行動の最終部分にはやはり性的な欲求があるので、果たして「彼」が望んでいたことが何であったのか、相手の立場に立って考えているとは思えません。ここまできてもあくまで「私」自身を満たすところにしか欲求がないとも感じました。

さて、この最後に幻覚が消える様子、なんかデジャブだなって思ったのですが、そうです。宝塚の星組『ディミトリ』ですよ。なんか生田大和は他の作品でも似たようなことをやっていた気がしますが…。いずれにせよ私はめちゃくちゃ好きな展開です。


おわりに

「私」の語りで全てが進むため「私」に同情して、「彼」の軽薄さと求めるものの違いを恨みながら観るのが王道の読みではあると思いますが、それでも見れば見るほど、「彼」にどこか同情してしまうのは私だけでしょうか。

正直言って、スリル・ミーの題材としてはそこまで新規性の高いものではないと思います。〇〇の出来事の隠された真実として同性愛が登場するのは例えば『イミテーションゲーム』などもそうですし、もっと普遍的に愛とするのであれば割と類例はみつかるのではないかと思います。父親との確執が題材になるのもよく見ますし、凡人ではないことを証明するために殺人を犯すというのも『罪と罰』っぽい印象を受けます。
後輩も「キル・ユア・ダーリン」を類似の作品としてあげていましたし。

それでも何度も見たいと思わせるのは、見るごとに、役者ごとに解釈が定まらないことにあると思います。

その不安定さ、不完全さこそがスリル・ミーの魅力なのではないでしょうか。
だから私は配信期間中毎日最低2回通り見てしまっていたのです。
そしてこの感想文を、①と併せて1万3千字近く書いてしまったのです。

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