noteを読んでもらえるのはありがたいが、

ただ読んでもらうだけでは何もありがたくはない。ただ消費されるための文章を書いているつもりは全く無い。読んだからには、何かを得て帰ってもらいたい。その何かとは「問い」である。納得なり反感なりは、まあ勝手にすればいい。しかし、そんなものを得ても何にも意味が無いということは以前書いた。大事なのは問い。問いとは、そこから自分で考えることができるきっかけのことだ。

あるnoteを読む。読んだnoteから問いを受け取り、考えを進め、その考えたことによって、これまでの自分が変わる。そういうnoteでなければ、読んだ意味は無い。このnoteを読んだあなたが、なにかしら、このnoteを読んだことによって考えを進めることができなければ、このnoteを読んだ意味は無い。人生の時間を無駄にしたくなければ、このnoteから何かしらの問いを受け取らなければならない。

問いを受け取り考える。この「考える」という営みは、孤独な作業である。考えるときは一人で考えるのである。「みんなで考える」などというものは無い。あるテーマに関してみんなで考える場である「哲学カフェ」なるものが、はやっているようだけれど、考えが足りない人が集まっていくら考えても無駄である。考えが足りている人は集団になることはない。集団になって何かを考えるというのは、集団になって何かを信仰するのと同じことである。どちらも、自分たちの思っていることの正当性を自分の属する集団に求めているという点で変わらない。

考えるというのは、ただ理解するというだけにとどまらない。それによって、自分が変わらないといけない。知行合一という言葉がある。知ることは行うことだ。たとえば、浮気が悪いと「考えた」ということは、浮気ができない自分にならないといけないということだし、酒が体に悪いと「考えた」ということは、酒を飲めない自分にならないといけないということだ。単に、道徳や健康という面からそれらを理解したというのであれば、それは「考えた」ことにはならない。「頭で考えて分かってはいるんですけど……」というヤツは、考えて分かるということがどういうことか、何一つ分かっていない。

受け取った「問い」は、自ら考えなくてはならない。自ら考えるということが、あることを「問い」として受け取ったというそのことだからだ。自分の問いを誰かに訊くな。自らの問いを自ら考えるということが、生きるというそのことだと気がつけ。

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