なぜ書くかということに対する自省
わたしのnoteにいただいたコメントから改めて考えることがあったので、書いておきたい。コメント自体をご紹介することは差し控えるが、そのコメントには、書くことに対するその方の覚悟が、非常に正しく美しく現われていた。
みなさんはありますか、書くことに対する覚悟。
みなさんはなぜ書くのでしょうか。いや、もっと正確に言えば、なぜ書いて発表するのでしょうか。
「なぜも何も無いよ、ただの娯楽で、暇つぶしだよ」と言うのであれば、その人の書くものは、ただの娯楽で暇つぶしとして、消費されることになるかもしれません。
「書きたいことがあって書かずにはいられないのだ」と言うのであれば、その人の書くものは、ただ書けばいいものであって、このような場に発表するべきでは無いものかもしれません。
「自身の思考整理、つまり、自己実現のために書いているんだ」と言うのであれば、そうして実現される自己とは一体何なのか、まずそれをこそ先に考えた方がいいかもしれない。
書くこと、あるいは、書いたものを発表することは、本来、生きる上で必要性の無い行為です。必要性が無いことをなぜあえてするのか、このことに対する自省が無く書かれたものが非常に多い……というか、そんなものばかりのように、わたしには思われます。書くことが、書いて発表することがそれだけで良いことだと無条件に信じ込まれてしまっている。本当にそうでしょうか? もしも発表することがそれだけで良いことなのだとしたら、その結果起こるあれらSNSにおける炎上騒動も肯定すべきことになってしまいますが、それでいいでしょうか?
書くことを発表することには一つの緊張が無ければならない。これは果たして発表すべきことなのか、それとも、沈黙しておくべきことなのか。沈黙せず発表することにどのような利益があるのか。それが、そのまま、なぜ自分は書くのかという自省なのです。
あなたはなぜ書くのでしょう?
わたしは、なぜ書くのか。これは、以前にも書いたことがある。一人の人を救うためです。誰にも理解されないと思っている孤独な魂を救うために、わたしは書いている。そんな人はもしかしたらいないかもしれない。でも、いないかどうか分からない。だから、書かざるを得ないのです。
自分が書いたものが、時に(いや、いつも?)傲慢に響くかもしれないことは、自分でも重々承知しています。しかし、それをやめることはできない。それは、わたしが、自分のために書いているからではないからです。いや、あるいは、それは自分のためなのかもしれない。いつかの、あるいは、ただ今の自分を救うために書いているのかもしれません。しかし、それはそのまま、同種の魂を持ったもう一人を救うことになるはずだと、そう信じて書いている。だから、それ以外の人に対して、傲慢に響こうがなんだろうが、そんなことは知ったこっちゃないんです。たった一人にだけ通じれば、それでいい。そうして、その可能性を思い描けなければ、わたしにとって、書く意味は無い。
あなたはなぜ書くのですか?
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