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芸人の居場所について考える

上島竜兵さんが亡くなった。
最初にそのニュースを聞いた時、耳を疑った。病気だったっけ?と。
そして自ら命を絶ったと知り、絶望した。
誰か、家族や周囲の人は彼を救ってあげることはできなかったのか、と。
もしくは彼自身が誰にもSOSを出すことなくこの世を去る選択をしてしまったのか、と。

「普段から元気で明るい芸人が自殺するのは凹む」というツイートを見かけた。
上島竜兵が元気で明るい芸人だと世間で認知されていることに驚く。
彼ほど、他人に依存している人間はいないし、孤独では生きていけない人だろうと私は勝手に思っていた。そして同時に多くの芸人たちに愛された人であることも。

最初に言っておきますが、私は自殺の死因を推測するつもりもなければ、決めつけるつもりもありません。著名人が自殺をすると、推測はやめてください、みたいな注意喚起が流れますが、それをいちいち間に受けすぎな方にも問題があると思っているし、私自身はそういう気持ちになりそうな時はSNSから離れます。
ただ闇雲に不安を煽るのではなく、故人を追悼する意志があるとわかる発言は一つの追悼の形として割り切ってはどうかなと個人的には思います。

話が逸れました。
まずはこの記事を一読いただきたい。

私自身、バラエティが好きで芸人が好きだから、この記事に激しく納得したのです。これから先、多くのコンテンツが生まれてエンタメが多様化していく。
そしてダチョウ倶楽部も過去、新しい笑いを切り開いた立役者だと思うのです。

誰もやりたくないというシチュエーションでおもむろに「じゃあ俺がやる」「いや俺がやる」とどんどん手を上げていき、最後に上げた人に「どうぞどうぞ」と譲るアレ。「押すなよ、絶対に押すなよ」というのは「押せ」という暗黙の合図だったりするアレ。中身はぬるま湯だったらしいが、あたかも熱湯と見せかける熱湯コマーショルはどれだけ熱湯っぽく見せられるかという芸の極みだし、誰より男気があって優しい先輩なのに面白くない先輩を演じて後輩にいじられるところを見せて、みてる人を笑わせる、などなど。
ダチョウ倶楽部は、笑っちゃいけないんだけど笑ってしまう、笑わせられてしまう芸の第一人者だった気がする。

ただ、昨今コンプライアンスという言葉が一人歩きして、解釈によってはいじめや差別とも取れる芸風は一気にテレビから姿を消した。当然、容姿をいじる芸なんてもってのほかで、女芸人が「ブス」といじられてご飯が食べられた時代はもう終わってしまって辛いとこぼしていた。
そもそも彼らはいじられることのプロなので、それで傷ついたりしないのだけれど、それを見た子供が真似をするだとか、教育上良くないだとか、今まで笑いになっていたものを笑ってはいけない、笑ったら悪だ、という時代に突入したと言っても過言ではない。

時代の移り変わりにどこまで対応していけるのか、自らをアップデートしていけるのか、が長く生き残るコツだとすれば、それができない人は必要とされなくなる。そもそも、番組が呼ばなくなる。そして、どこで何をしているのかがわからなくなる。世間が忘れていく。過去の人として紹介されていく。そこからブレイクする場合もあるけれど、多くは、一時的な話題作りで終わりだ。

ダチョウ倶楽部の芸風の話に戻る。
彼らの芸はコロナ禍では披露できないものが多かった。
熱湯風呂、喧嘩してからのキス、大勢に揉まれて気付けば全裸にされている、などなど人の密着を要する芸ばかりだった。
それはお約束芸として面白いのは事実だし、きっと今でも面白いはずだ。

ただ、コロナ禍でもお届けできる、今までにない別の芸を追求していけば、そこにハマる新たな芸人が現れ、その座を奪われる。新たな人気者を生み出していくアップデートの激しいテレビ界で一度お払い箱になった芸人が再度呼ばれることは難しくなっていく。面白くないわけではないのに、いつの間にか見られなくなった芸人というのはまだ他にも多くいる。売れたいと思っていたけれど、生活のために始めた副業が軌道に乗ってしまいエンタメ界から消えていった芸人だっている。その姿は様々だ。

果たしてコロナ禍が落ち着いたらダチョウ倶楽部は戻ってこれただろうか、と思う。新たな芸を身に付けて戻ってくるだけの若さと気力は彼らにあるだろうか。
しかしこの記事をみる分には、そのことに上島竜兵さん自身も気づいていたんだと思う。

志村けんさんが亡くなる前、あれほど手を出さないと決めていた俳優としての映画出演を快諾したとニュースになった。新たな活動の場を広げたのだな、と思って喜ばしかった。コントという形じゃなくとも彼は愛された人だったから活躍してほしいと思ったから。
上島竜兵さんも同じだと思う。彼に活躍の場はいくらでもあったのではないだろうか。あの芸は見られなくとも、亡くなったと聞くとこんなにも寂しいし、心苦しい。惜しむ声が後を絶たない。それは愛されている証拠だと思う。
何があったかわからない。でも直接の知り合いでもないから励ましてあげることもできない。本人はそんなことを望まなかったかもしれないけれど。

かつて活躍した芸人に、世の中はどんなことを求めているのか、どんなことをしてほしいと思っているか、がせめて本人に伝わればなぁと願う。
なので、私は目にしたもので、面白い番組だ、素晴らしい企画だというプラスの気持ちを持ったら、それを周囲にできる限り拡散し、興味のある人に伝わるようにして、なおかつ公式の方に対して何かを残るようにしたいと思っている。
以前はこうした感想は、公式に見つけられてしまうと怒られるんじゃないか、とビクビクしたものだったが、もうそういう時代ではなくなった。SNSの公式の中の情報発信だけが仕事じゃない。情報収集もしているはずだから、きっとそういう声も世間にはあるのだと伝えてくれるに違いない。
あのお菓子が販売中止になった、あの飲み物が製造されなくなった、などなど当たり前にあると思っていたものがなくなっていく時代に、我々ができることは、良いものは良いと反応すること。評価すること、だ。

声を大にして言う。
ダチョウ倶楽部は面白かった。もっと声に出せばよかったのだ。
そうした評価が、自信につながって、生きてていいんだ、と思わせることができたかもしれないのに。

私自身、命を絶とうとしたことは、過去いくらでもある(思ったことない人なんていないと思ってるくらい普通の感情だ)
でもその衝動に至った時の全ての共通点は「誰にも必要とされてない」と自覚したときだ。だから孤独になってはいけない。
私は自分の命を守るために自分にしていることがある。それは、少し未来に楽しい予定を必ず入れること。これで今日はまだ死ねないと思うことができるから。

最後に、エンタメに生きる人間に必要なものは『反応』だと思う。
私も作品に感想くれ、と思うだけじゃなく、人の作品に感想を伝える人間にもならなくてはいけないと思った。相互に褒め合う優しい世界はあっていい。


上島竜兵さん、あなたは面白かった。どうぞ安らかに。
2022.5.11

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