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真雪アナザー [3]

梅雨の登校路は嫌いだ、肩は濡れるしスカートも濡れる。梅雨の玄関や廊下は嫌いだ、不躾に濡れた廊下や階段は茶色く濡れていて汚らしくそして滑りやすくて危険。梅雨の教室は嫌いだ、締め切った教室では皆の髪や服から水気が空気に含まれて少しの熱を纏いムワッとした空気は集中力を微かに奪う。梅雨の図書館は嫌いだ、くたびれた本たちから独特の匂いが湿度の高い空気に移り新鮮な空気とはとても言えない。

だけれど真雪は梅雨の時期の学校が好きだった。

登校路で濡れた靴下を新しく履き替えたあとの涼やかな足の指先。10分休憩で窓を全部開けて換気をして外から流れ込む新鮮な空気の肌触り、匂い。昼食中に沙衣の顔と窓から見える自由落下する無数の水滴たちに視線をいったりきたりさせる静かな時間。司書さんが離席している間に窓を少しだけ開け、隙間から見える中庭と右手に見える壁や雨樋を伝う雨水の動き、ぱちぱちと水滴がコンクリートを叩く音。
嫌いな所と好きな所が切っては離せない梅雨の学校の雰囲気が総じて好きだった。

そんな梅雨の高校でその子に出会った。
髪がしっとりしていて(後から分かったことだが梅雨だからではなくこれは一年中そうだった)麗しく黒い髪に小顔で控えめな表情、少し垂れた目尻、長い首の左右からゆらゆら見え隠れするポニーテール。
雨に濡れてより際立ち美しく見える桜や梅をその時思い出した。日中は梅や桜を愛でるには他の情報が邪魔をするのだ。雨で一様に黒く塗りつぶされた視界の中で唯独り凛とした淡紅色には遠目でも目は強く惹きつけられるだろう。梅雨も恥じらう乙女とはこの子のことだと真雪は雨の中思った。
真雪は下駄箱の軒下から傘もささずに外にでていたようだった。肩や頭は雨に降られ少し濡れていた。無意識に彼女に惹かれて引かれて二歩三歩、水たまりを踏んでも真雪の視線は文字通り釘付けだった。

霖。その子の名は霖という。
美術の先生との話で何度か出てきたその子を真雪は、自転車置き場で教室移動の廊下で放課後の図書館で、時折眺めていた。真雪が見た限りではいつも一人で居て表情は暗いわけではないが印象に残るほど明るいわけでもなかった。
別に他人を寄せ付けないオーラのようなものがあるわけではなかったが一人で居てもなんら不思議ではない雰囲気があった。誰かと居なくても一人でに景色になれる素質を持っているように真雪は感じた。それと同時に真雪は沙衣など友人たちと居なくても私は一人で景色と一体になれるだろうかと初めて考えた。
普段からそのように霖のことを思っていたので雨の降り注ぐ駐車場脇で立つ彼女とその景色を一枚の絵画のようだと思いかけたが真雪がその時目にしたものは違った。静的な美しさはあるが時が止まっているわけではなかった、ちらちらと降る雨粒と彼女の呼吸に合わせて少し動く身体の芯やポニーテールの髪先はそれぞれ別の意思で動いているはずなのにそこに感じるのは調和だった。

右耳から車の駆動音と水たまりを走る音が聞こえてきて我にかえる。紺色のプジョーが雨に振られながら校門を通り臨時駐車場に向かうのを霖の視線が追う。追うに連れ彼女の口が僅かにほころぶ。水たまりを避けながらやや不規則にジグザグに車の方へ向かい後部座席のドアを開け彼女は乗り込んでいった。そしてまた駆動音と水たまりを走る音が左から右へ耳に流れていった。

下駄箱外の軒先きで一人残された静寂の中、姿を消した彼女の輪郭から音もなく降り注ぐ細かい雨に徐々に焦点が合うのを真雪は認めた。


遠出の散歩