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千葉県船橋の虚無僧寺 清山寺☆仙石騒動の友鵞、愛璿ゆかりの寺


一月寺 末寺頭 神明山清山寺



所在地
船橋市宮本町2-4-10-11(旧五日市町439)

船橋大神宮の表鳥居の近く。現在はオネスティ11番館という建物がある。

江戸名所図会 船橋 意冨日神社 
国立国会図書館所蔵


鳥居辺りを拡大。

ピンクので囲った辺り、のはず。
右上の方へ伸びている道は、ちょうど一月寺の方へ行く道か。



船橋大神宮
正式名「意富比神社(おおひじんじゃ)」


江戸名所図会 意冨日神社 旧所 
国立国会図書館所蔵

元々は小さな祠だったのでしょうか。



菩提寺
臨済宗大徳派 萬満寺 
(所在地:松戸市馬橋)

敷地
四畝(せ)十歩  

(一畝=30坪 六畳の和室が10部屋あるイメージ)

開基
寛永十一(1634)年十月十七日  

建物:不明  

本尊:不明



<歴代>


(この地にあった墓銘による) 


開山  
清山寒江大居士 
慶安三(1650)年二月十四日

明竜光無 和尚 
承応二(1653)年四月十一日

中興 
高山友玄 和尚 
元禄十(1697)年八月

千江秀廬 座元 
享保七(1722)年六月十日

徴峯常雄 首座 法信庵 
享保十四(1729)年九月七日

佳雲林鐘 座元 
延享二(1745)年八月十五日

鉄透祖関 
天明七年(1787)四月九日 

鉄透祖関は、一月寺に栄転し百八代と百十代の二度の一月寺住職を勤めた。

この頃に川原丹蔵という尺八の巧みな者がいた。三代目黒沢琴古の記した宗家伝来の唯一の文献『琴古手帳』の「当流尺八曲目」によると、「打替虚霊」という曲が、清山寺の本則、川原丹蔵より伝来したと書かれている。


無着愛璿 
天保十二(1841)年四月十日 

一月寺に出役、鈴法寺31世。仙石騒動で活躍。


友鵞   
天保十四(1843)年十月廿六日 


無関有道   


澄源有道 
慶応元(1865)年十二月廿七日 


澄源有道は、安楽寺25世、鈴法寺32世。
中塚竹禅が記すには、「尚此過去帳には書いてないけれども、其後第二世を継いだのは一月寺派末寺頭清山寺看守澄源有道和尚で、之れは弘化三年の事である。有道和尚は清山寺看守から一旦鈴法寺末の武州布田の安楽寺看守となり、後鈴法寺の法統を継いだのである、寂年は慶応元年十二月廿七日享年七十五歳、之で鈴法寺の住職は終わりであります。」


澄源有道和尚は、一月寺末寺の清山寺の看守から鈴法寺末寺の安楽寺看主となり、最後は青梅の鈴法寺で示寂されたとのこと。




墓碑群は、萬満寺に移されています。


萬満寺についてはこちら↓




萬満寺にある清山寺住職の墓碑

千江秀廬 座元
佳雲林鐘 座元


お墓で分かるのがこの二人。その他の墓は要調査。地蔵尊などは、一月寺のものなのか清山寺のものなのか不明。


遺墨墳いぼくふん」友鵞筆の碑


廓嶺三十一世無着愛璿和尚元当山寺務而有勤功也一宗人所知也有故而転派活総雖有再帰派之約時不至而終天保十二年辛丑四月十日僊化今瘞遺墨於此建塔以令遂其約志矣                
保寅四月   
法弟 當山看司 友鵞拝詞

友鵞とは、虚無僧になった出石藩士の神谷転のこと。一月寺の役僧、愛璿に助けられた。

天保十二年に亡くなった愛璿の功績をたたえて、天保 14 年(1843 年)にこの遺墨墳を立てたようです。



『仙石騒動』シリーズはnoteに其の六まで続いております。


友鵞が看主となった松見寺はこちら↓



見出し画像にもあります、こちらの絵。

歌川国輝(二代) 作
「船橋大神宮ヨリ真間国府䑓眺望従上總下總富士達望」



左端の丸が松戸にある惣本寺一月寺、右端の丸が神奈川にある末寺頭の西向寺、そして真ん中の丸が同じく末寺頭の船橋の清山寺が見渡せます。


神奈川の虚無僧寺、西向寺の九世宗篤泰富和尚(寛道宗篤)が、「1774年宗門取締会議のため下総、清山寺会合へ出席」という記録があります。神奈川から船橋まで遠路はるばる歩いてやってきたんですね。もしかしたら船でやってきたのでしょうか。


因に、一月寺から清山寺までは徒歩4時間くらい。西向寺からだと、一日がかりですね。



どんな風景だったのか、見てみたいものです...。




参考文献
高橋空山「普化宗史」
中塚竹禅「琴古流尺八史観」
値賀笋童「伝統古典尺八覚え書」







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