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仙石騒動で暗躍の一月寺役僧、愛璿を追う!!!

町奉行に捕らえられた絶体絶命の虚無僧、友鵞ゆうがこと神谷転かみやうたたは、一体どうやって救われたのか?!




『仙石騒動』シリーズまだ続いてます。



今回は、

一月寺役僧、愛璿の活躍ぶり、というか暗躍ぶりを解明!



幕末の虚無僧が一体何をやらかしたのか!?




ちゃんと内容知りたい方は、

仙石騒動の年表書いてみたのでこちらをどうぞ↓


ささっと知りたい方はWikipediaもおすすめ♡
非常に簡潔で分かりやすいです。




ついでにうたたが捕縛される場面の浮世絵などはこちら↓




さて、

まずは、虚無僧となった神谷転の動きを整理したいと思います。




出石藩の老中仙石左京を失脚にい追い込もうとしていた重臣らが厳しい処分を受けるが、その一人、河野瀬兵衛は扇動者として追放される。


1833年、出石藩を追放されふんまんやるせない河野瀬兵衛は暫く丹波に潜伏するが江戸に出る。



江戸で老中に駕籠訴するが取り上げられなかった。


そして神谷転に上書を分家に渡す役割を依頼。上書とは、臣下から主君・上官に対して意見を記した文書のこと。上書の内容は、左京は国もとで奢りをきわめた生活をしていることや、自分達は不当に処分を受けたなど23か条に及ぶ。



天保五年 1834年 


2月 出石藩から、神谷七五三のもとに弟、うたたを伴い出石に帰るようにと命令が届く。

→転、行方くらます。


4月 江戸麻布六軒町の有名な柔術家渋川仲五郎の紹介で一月寺に入り名前を友鵞ゆうがとする。




天保六年 1835年


3月 一月寺に入って間もなく、人手不足のため役僧に任ぜられ、上総国(千葉県)三黒村松見寺看主(住職代)とされる。

(早い!たった11ヶ月で看主です。尺八吹けたのでしょうか、そこかなり知りたい)

4月21日 友鵞が宗義上の用事で京都の明暗寺への出張の途中、書状を飛脚屋佐右衛門方へ預けに江戸に立ち寄ったところ、横山町二丁目で町奉行に捕らえられる。



5月9日 一月寺役僧愛璿は、江戸南町奉行筒井伊賀守政憲へ「御慈悲歎願書」提出。友鵞の吟味は町奉行に留め出石藩には渡さぬよう記す。



6月19日 愛璿は、再び出石藩邸へ赴くが、転の身柄は一月寺には返さないという返答。



その後愛璿は、三度にわたり寺社奉行所に願書を提出します。
友鵞が処罰されてしまっては自分の身も危ない。
咎人をかくまったってことになりますから、そりゃ必死です。



6月21日 第一回目の願書提出。


国史叢書 国史研究会編 大正6年
国立国会図書館所蔵



友鵞は一月寺の役僧であることを再三申し上げ、一月寺番所へ同道しての確認を訴えたが、理不尽に押し倒し、縄を懸け、仙石家に引き渡すと言い渡された。そこで「宗法」があることを訴えると、そのまま筒井様の番所へ引き連れられ、即刻入牢となり現在も吟味中である。しかしながら普化宗は慶長年中に新たに掟書を与えられ、延宝年中に老中列座のもと、武門不幸の士が門弟となり、修行ののち帰俗させるならわしとなされた。友鵞は主家の安危を憂い、忠志を持つ者であるが、はからずも悪人不良のたくらみに陥り、志しも空しくなりそうになったので、ひとまず退身し入寺を申し出て参った。当寺では十分に調べたうえ、儀式にのっとって門弟にした。その後、人が少ないので役僧見習いをされていたが、松見寺しょうけんじの看守に任命した。
いったい諸藩において奸悪の臣のさかんなるときは、いちずに忠誠を保持している者どもがかえって無実の罪におとされるもの。このため人びとの義気が薄らぎ、忠烈の士は忘れられ、不道邪悪の藩風となり、遂には一藩の大事におよびがちであることはいにしえより数々語り伝えられているところであります。我々は孤忠の臣をあわれに思うものであります、なにとぞご慈悲をもって御奉行所においてのご吟味のうえお裁き下さるよう、去る五月九日筒井伊賀守様へご慈悲願書を差し出しましたが、ご採用下さいませんでした。
このことは友鵞一人に限ったことではなく、あまねく武士の危急を救う「宗意」に基づくものであるし、かねて幕府より仰せ渡された趣意もあるので、前述のような理不尽な取り押さえに加え、まったく下賎同様の取り扱いがされれば「一宗滅亡の基」にもなりかねないと心痛している、格別のご慈悲をもって、宗法古来の通り成り立つように、また友鵞の「孤忠の意念」も通じるようになれば有り難いこととお願い奉る。

『新選御家騒動 下 』福田千鶴 編
『仙石騒動』宿南保 著

太字の部分、

普化宗は慶長年中に新たに掟書を与えられ、延宝年中に老中列座のもと、武門不幸の士が門弟となり、修行ののち帰俗させるならわしとなされた。

とは、慶長之掟書けいちょうのじょうしょのことです。
慶長年間1600年代に決められた「虚無僧の為の掟」の箇条書です。



詳しくはこちらをどうぞ↓



この掟書は虚無僧に対して保護の役割を持っていましたが、この掟書を良いことに不法虚無僧が跋扈するようになりました。

1774年には”不法之虚無僧取締”という触が出されておりますが、その後も虚無僧による事件が幾つか起こり、虚無僧の体面を何とか保とうとしていた時でもあったとのこと。一月寺の役僧愛璿も、友鵞を救うためというよりは、虚無僧の体面を保つため、神君家康公の”掟書”を持ち出し、さらに二度目、三度目と願書を提出します。



さて、上書をに託した瀬兵衛は、しばらく江戸に留まっていたが、1833年8月には但馬へ帰り、姉婿の生野代官所地役人渡辺角太夫を頼って生野に潜伏。生野は天領(江戸幕府の直轄領の俗称)であるため、強いて身を隠さずに寺子屋を開いていた。


11月中旬、出石藩、瀬兵衛を捕縛する。


そして翌年、転が一月寺に入寺した頃、


瀬兵衛、死罪😱


証拠隠滅の為か、出石藩も何やら急いでいたもよう。
処刑直前、瀬兵衛はひどい恨み言を言い放ったそうな。



宿南保氏曰く、この処刑された瀬兵衛の怨念が乗り移ったごとく、一月寺役僧、愛璿の復讐劇が始まる!とのこと。



国史叢書 国史研究会編 大正6年
国立国会図書館所蔵


第二回目の願書 7月9日
友鵞は主家に忠節のものであり、亡命して入宗した者ではなく、ただ「奸臣の悪計」に陥った時は主家の浮沈も覚束ないと一途に忠誠を存じ込む者である。普化宗はかねてより「武流の隠家家宗風」であり、「孤忠」を助けて欲しいと願うので、「東照宮(家康)様神知の御深慮」があって立て置かれる宗門の意味にも叶うため、糾明のうえ証人をとって抱え置いた。そこで万一主家へ引き渡しになれば「忠意」もむなしくなるので、友鵞の身分は奉行所で吟味いただうくよう筒井様まで願い出たが承引なく、仙石家へ内談したところ不行届きということなので、ぜひ当寺社奉行所で吟味していただきた。
右の件は先だって願い出たにもかかわらず、いまだにお沙汰が無い。仙石家では旧家の老臣忠志の者四、五人を「奸邪逆臣」の取り計らいで滅亡・籠居などとなり、去月中に死罪になった者もあるとの風聞があるうえは、奸臣が時を得て忠臣が非道に陥り、忠臣の死後に暴悪増長邪曲となり、国乱を引き出すに違いない。
虚無僧は天下の家臣、諸士の席に置かれ、表向き僧形でも内心は武事を忘れず、国中往来の自由を許され、修行して深慮を得、国々の正邪、所々の風俗などを見分し、品によっては言上し、天下の大事であれば身命を投げるのが宗門の極意である。忠義の友鵞が万一主家に引き渡しになれば、慶長以来の掟が立たず、普化宗門が立たなくなると一宗の者どもも覚悟するほかない。天下武門の助けとなる宗意を思し召されて、友鵞の身分は奉行所で吟味していただくようお願い奉る。

『新選御家騒動 下 』福田千鶴 編



国史叢書 国史研究会編 大正6年
国立国会図書館所蔵


第三回目の願書 7月21日
友鵞が主家へ引き渡されればその忠志もむなしくなり、仙石家の存亡も計りがたく、とくに種々世上の風聞もある。友鵞がかねてしたためていた書面の外に、左京不届きの箇条を認めた書面もあり、封印を付けていた。今回、御奉行衆へ願書を提出するので開封すると、容易成らざる儀が記されており、出石表に人を遣わして実否を確認すると符合するところがあった。かつ仙石家の旧臣四人が去正月中に隠居(久道)へ左京不心得の取り計らいを記した諫書かんしょ(過ちを認めるよう直言する書)を提出したが、四人とも同月二十二日に減知のうえ隠居を命じられ、慎み・逼塞ひっそく・蟄居となり、間ごとに釘をして番を付け置かれた。そのうち、三月には病死者もでた。また奥付おくづきの麻見四郎兵衛は、天保四年九月中に瀬兵衛が出府して、常真院と道之助殿の実兄仙石久大に諫書を提出した筋を「尤も」と考え、出石に使者として赴いたが、役儀解任・隠居を命じられ、倅には扶持米ふちまい(給与の米)を使わされた。江戸年寄の本間左仲も再度の使者となったので、役儀を解任された。瀬兵衛は、右の四人と通じれば事が起こるので追放され、その後出石で入牢となり、当六月に死罪となった。同様に友鵞も引き渡されれば非道の死を遂げるし、忠誠の数人が罪に陥ったのは嘆かわしい。そこで友鵞の認めた書面と左京箇条一通を内覧にいれたい。友鵞はじめ忠志の者がかえって不忠となれば不憫なので、なにとぞご慈悲の沙汰を願い奉りたい。

『新選御家騒動 下 』福田千鶴 編


『仙石騒動』の著者、宿南保氏の要約によると、


一回目の願書では、
普化宗の由緒を説明。友鵞は、主家に忠誠を尽くしているにもかかわらず、悪人の企みに陥り、退身して入寺した。
一月寺の役僧であるのに、理不尽に捕らえられたこと。虚無僧寺としての宗法を守るために友鵞の一件の穏便な解決を願う。

二回目、
仙石家の内紛に触れながらも、友鵞が忠義の者であり、それを守らなければ、天下部門の助けを宗法とする普化宗の掟が立たなくなると宗門の存亡に主眼をおいて友鵞の救済を訴える。

三回目、
二回目の願書が受け入れられないと、具体的に仙石家の内紛をあばき、「忠・不忠」の観点から正しい裁きをするようにと主張が変化。




愛璿は、この三度目の願書とともに、転の書き残していた書状、瀬兵衛の上書の写し、風聞書も寺社奉行へ提出。

風聞書は出石の情報を得る為に密偵を派遣したと願書の中で述べていた。
報告者は岡幸蔵。風聞書は左京は老公久道を毒殺し、現藩主をも毒殺しようとたくらんでいると述べているとのこと!!!😱

真実ではないのに巷の噂で、こういう話が一人歩きしてしまう怖さ。




岡幸蔵の風聞書 



『出石紀聞』国立公文書デジタルアーカイブ


『出石紀聞』国立公文書デジタルアーカイブ


左京は、家老職を一人で努め、自分へ随順しない荒木玄蕃をはじめとする多数の者たちを免職、あるいは禄を減じ、または永の暇を申し付けるなどしている。この一方で、自分の息子へ松平主税の娘を嫁にもらい受け、金五、六千両の贈り物をした。このため左京の威勢はますます増長している。そして反対する者どもに対しては非道な取り押さえを行っている。
仙石家勝手訳の河野某は左京の謀略を知っていた年寄どもとひそかに通じ合っており、これをうすうす聞き込んだ左京は、河野の落ち度を過大にとり上げ、謹慎申し付けた。河野は神谷転と無二の懇意の者であるから、左京の謀略のことをひそかに書状をもって転に知らせた。このことを左京の随順者が左京に告げたら、河野は即日入牢を申しつけられ、糾問を受けた。この席で河野は転から伝えてきたことどもについても申し立てたので、転にも御用の筋があるとて、国もとへ帰るようにとも命が江戸表へ下された。この命令を聞いて転はその夜、行方をくらませた。それを追って出石ではまず転の兄、七五三を国もとへ呼び返し、転の行方を聞き出した。そして麻生六軒町柔術師渋川伊吉の紹介で一月寺に入り、虚無僧となった由を突きとめ、江戸留守居 (1) 依田市右衛門と河野丹次に命じ、筒井伊賀守 用人 (2) へ転召し捕りと出石藩への引き渡しを頼ませた。すると寺社奉行所の吟味を受けたいと強く言い張り、さらに容易ならざることを申し立てたので、ひとまず町奉行所の座敷牢へ収容し、内々の尋問が行われることになった。
転が申し立てた、容易ならざることとは、天保五年(1834)、久道が国もとにおいて病死したのは、左京が毒殺したものであること。また当主が幼年であるから、これもまた毒殺したうえで、自分の息子をその跡目にすえようと企んでいるとうこと。
すでに随順したものはそれぞれ引き立て出生させ、従わない者は少々の落ち度でも過大にとり上げ、役職を召し上げている。身分の軽い者でも内実の裕福な者は選んで立身させ、彼らから金子を借り受け、領分へは御用金を申し付けるなどして左京は多額の金子を蓄え、はかりごとを成就させようと企んでいる由、世間は噂しております。

天保六年七月二一日      
岡幸蔵

宿南保『仙石騒動』
  1. 【留守居】老中の支配下にあって、大奥の取り締まり、奥向き女中の諸門の出入り、諸国関所の女手形などの事務、また、将軍不在のときは江戸城中の警衛などをつかさどった。

  2. 【用人】 江戸時代、大名・旗本・貴族などの家で、老臣の次に位し、財用をあずかり、内外の雑事をつかさどったもの。




一方、仙石家でも、友鵞は不届き者として奉行所に届けていたので、引き渡しを受けなければ「家政取り締まり」にもかかわることなので、早々に引き渡してもらいたい旨を届け対立を深めていった。



その後、仙石一族は江戸に召還されることになるわけです。



今回は愛璿の頑張りぶりに焦点を当ててみたわけですが、愛璿こんなに頑張んなくても…家斉どのはもう心に決めておられたようですね。




当時の社会を震撼させた大事件であったので、講談、歌舞伎によって広く知られるようになったとのこと。


主家横領を企てた老中仙石左京の、隠亡暴露に努めた虚無僧友鵞こと、藩士、神谷転の奔走で、仙石家内部紛争が表面化したため、幕府によって断罪された!という内容によって虚無僧は珍しく善良な忠臣に描かれています。



違うんだけど。

やっぱり、虚無僧は悪い奴なんだな。。。



…と、気を落とさず、


次回は、友鵞が捕まった場所まで行ってみたのでそのご報告します♪

まだ続くか!仙石騒動!


参考文献
『新選御家騒動 下 』福田千鶴 編
『仙石騒動』宿南保 著

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