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對山派って何ですか?

そんな質問が古典尺八楽愛好会の参加者の方からありました。


明暗流には二派あって、その一つが對山派であり自分たちが吹いている曲はその對山派なのだ。

もう一方は、もともとあった旧明暗寺系で、明暗真法流と呼称されている。



ところで何故そんなことになっちゃったの?

名古屋の樋口對山がいきなり京都に行って、明暗流を継ぐことができたの?

今まであった京都の明暗寺系とは喧嘩にならなかったの?



と、そんな細かい疑問も沸いてきた。




まずは、


分りやすくルーツを書いてみました。


もっと複雑な線で結ばれるであろうとは思いますが、ザックリとした系統図です。

名前の前のカッコの数字はミニ講座での説明で使ったもので、ここでは特に使いません。

〈注釈〉
浦本浙潮は小林紫山から習ったのは「虚空」1曲のみで、あとは宮川如山に全曲習った。「虚空」(分割前の全曲)も習っている。




実はこの質問、谷派の方からの質問だったので、西村虚空まであります。

竹内史光と同じ1915年生れだったんですね。

二人とも第二次世界大戦で戦争に出征していますが、虚空師は怪我をして日赤病院に入院している時に退屈だと言っていたら、稲垣衣白が谷狂竹を連れてきてくれて、そこから西村虚空は尺八の世界に入ったとのこと。

ご子息の西村虚流師にお話を伺いました。



さらに谷派の話になりますが、西村虚空は谷狂竹を宗祖とし、普化宗谷派を立ち上げますが、曲は浦本浙潮から習ったようです。

これは、尺八研究家の故山田悠氏のメモからの確認と、同じく研究家の神田可遊氏から伺いました。

故山田悠氏のメモ

さすが山田氏。細かい。
谷狂竹と西村虚空の関係はなぜか点線です汗



虚空師の書いた楽譜の内容は、谷北無竹の系列とほぼ同じ。

對山が整譜した後、小林紫山以降の楽譜であろうと思われます。

谷派でいう谷狂竹は、普化禅師のような存在ですね。



余談ですが、

私が初めて谷派の関東道場にお邪魔して、一尺八寸で本曲を吹きましたら、道場の一人の方が「短い竹で本曲が吹けるの?!」と驚いていました。

こっちの方が驚きました。

ということで、流派、宗派ってのは、こういう人も作り出してしまうから怖いもんだなと思いましたが、同じ派内に山田さんみたいな人もいるんだから、人によるのか。

それもこれも師匠によるのかもしれません。




話がそれましたが、



まずは、

樋口對山が習ったのは兼友西園という人。



西園流の開祖・兼友西園とは



1818年生-1895年没。 
本名、兼友 弥三左衛門 盛延もりのぶ

一月寺末寺・浜松普大寺の玉堂梅山に師事。(実際は玉堂と梅山)

本名の盛延モリノブから音読みのセイエンと号した。


家は代々の砥屋で、資産家でもあった。
十六歳の頃には既に一かどの尺八を吹く。浜松普大寺の虚無僧を家に招き入れて尺八の稽古をした。稼業もそっちのけで尺八にのめり込み、老舗を誇る実家の大きな店も閉店させてしまった。1877年頃には入門者も多く、経済的にも社会的にも大いに恵まれた時期、所謂黄金時代であったと、次子喜之助氏未亡人のカツ子氏の述懐談である。天性の無欲恬淡てんたん振りというか、名人肌というか芸術肌というか、ドウモ教授に身が入らぬ、折角の入門者を玄関で追っ払ったり、門人の出来が悪いからと頭からガミガミ怒鳴ったりした。コンナ関係で之れという優秀な門人は出来なかった。
又、流派とか宗家とかいう事も全然眼中に置かなかった。全身之れ尺八、尺八の前には利欲なく名誉なく強いて言うと家庭もなかった。ただ閑寂な閉じこもって端座瞑想、気が向けば尺八を吹き、倦むと天地に俯仰した。

四十の時に杉田コウを娶ったが実子が無く、妾の子の長男を閉店した砥屋を再興させ実名、弥三左衛門を襲名させ、老舗の挽回を計ったが、1901年(明治34)に夭折してしまった。次子は喜之助といい米殻取引所に勤めていた。
同門(西園流)の村瀬竹翁(本名・亘)とは「刎頸の交わり(生死を共にするほどの親しい交友関係のたとえ)」と言えるほどにとても仲が良かった。

中塚竹禅著「雑音集」より抜粋


兼友西園はめちゃめちゃ尺八が好きだったということです。


富森虚山著「明暗尺八通解」には尾張藩士兼友西園と書かれていますが、これは間違いのようです。



さらに、もう一つの資料には、



幼少より尺八を好んだ氏は,遠州普大寺の虚無僧,梅山玉童の兩氏に就てより,其技大いに進み,遥に兩氏を凌駕したのと事で,習得した曲は本曲十一曲に過ぎなかつたけれども是に依つて得た知識は廣大なものであつた。

安福呉山(遺稿)(1927)
「西園流の始祖兼友西園」


ブログ「尺八古典本曲練習帳」より抜粋させて頂きました↓


虚無僧より、尺八が遥かに上手かったというスゴイ人。



ところで、

「浜松普大寺の玉堂梅山」の一人説が一般説となっていますが、

ここで、「両氏に就いて」とあるのが問題視されている。


  • 普大寺の虚無僧、梅山と、玉童(玉堂)の両氏なのか、

  • 普大寺の虚無僧某と、梅山玉童の両氏なのか。

  • はたまた玉堂梅山なのか、梅山玉童なのか。


神田可遊著「尺八通信 4号」の『西園流の成立について』によると、多くの資料からしてどうやら「二人説」が本当のことのよう。


散々noteにも書いている樋口對山の略歴を書き直さねばです💦




普化宗廃宗の7年後に発行された「愛知県人物誌」によると、玉堂梅山の門人であった兼友西園と村瀬竹翁が、箏、三絃との合奏の教授や演奏もすでに行っていたことが想像できるとのこと。

栗原廣太『尺八史孝』には「西園は専ら外曲に力を用ひたるに反し、此の竹翁は主として本曲を研鑽したりと云ふ」とある。


三曲合奏もすでに盛んに行われていたのですね。



岐阜で開催されていた竹内史光師門下の古典本曲の集まりには、いつも西園流の故大釋艸園師がいらしていて、とても熱心な方で、そんなイメージで西園流は本曲しか吹かない流派だと私はずっと思っておりました…。ここにも、井の中の蛙あり。




こちらは西園流系統図

岐阜の師匠に頂きました。
故大釋艸園師の名前が、一番下にあります。



西園流の派閥については、

國見昌史氏がとても詳しく書かれているので是非↓


その他、國見昌史のブログには西園流のことたくさん↓



さて、


兼友盛延は、名古屋に於いて尺八を広め、西園流と称した。


その門人に、鈴木治助(樋口對山)という尺八の達人がいた。



やっと出てきた、

樋口對山とは


今井宏泉「素浪人 塚本竹甫」より


1856年(安政三年)三月十五日、

鈴木得道(塚本虚堂談)の子、治助として名古屋に生れる。幼少の頃から尺八好き。
鈴木家は材木商であったという。(明暗丗五世紫山居士・東海虚山坊散士「明暗吹簫法基段」)

安福呉山によれば味噌醤油商(「樋口対山師に就き見た侭聞いた侭」三曲61号)

西園の門人として名古屋の尺八界ではその名を知られていたが、1885(明治18)年、30歳の頃に尺八で身を立てようと京都に出る。(富森虚山「明暗尺八通解」)

祇園の色街を流して歩いたとのこと。

(谷北無竹によると)書道も堪能であった為、尺八で立てねば書の方でと決心していた。師匠は遠山廬山。雅楽の達人でもあった。



1890(明治23)年8月

明暗教会が東福寺善慧院(ぜんねいん)に設立。「訳教(惣取締、理事長)」となる。35歳。東福寺系虚無僧団体のトップ。

戸籍名を「孝道」に変え、家督を弟に譲り、生田流箏曲家の樋口元栄と結婚。樋口孝道となる。

「私は当家に依って引き立てられ、又樋口家も自分に依って幾分引き立てられたと云ふような訳合なのあります」と書いている。(飯塚恵理人「近代愛知県の三曲について 担い手の変化と口承から楽譜による伝承へ」)


1892(明治25)年

乗願寺に指南道場設ける。
鈴木對山の名前で『尺八指南』鈴木孝道の名前で『尺八独習自在』を出版。
フホウエ譜しかなかった関西に初のロツレチ譜として出版する。

快道流でも明治三十六年にはロツレチの譜(角屋可好「尺八之栞」)が松坂で出るが、明治二十六年で大阪で出た譜(上田捨吉)はフホウエであるとのこと。

【快道流】とは京明暗寺の南都出張処出訳「快道」に始まる流派ではなかろうか。(神田可遊「「尺八評論」6号)



1894年(明治27)年

東京に出て、荒木古童に入門。
明暗流に「一二三調」「鉢返し」「鹿之遠音」「真虚霊(虚鐸)」がある由縁。
對山は関西へ琴古流の曲の最初の移入者。

對山としては尺八で身を立てるためには、東京で名声の高かった琴古流、荒木古童(竹翁)へ入門しなければと考えたようだ。本曲が十一、二曲では少なすぎることも一つの要因だあろうし、外曲が興隆期を迎えようとしていた状況も十分に感じとっていたに違いない。また上京する前後には虚鈴が琴古流の真虚霊の前吹きである盤渉調を原曲としたものであることに気づき、真虚霊を習得し三虚霊(古伝三曲)を完全なものにしたかったに違いない。

神田可遊著「尺八評論」6号


浅草・海禅寺の山門


東福寺の管長敬冲は以前、浅草・海禅寺の住職をしていた。そうした事情もあったのか、對山の寄食先は海禅寺であったという。


東京では、對山は川瀬順輔の紹介で、滝川中和ちゅうかにも就いている。


この後、九州旅行などで曲の数を増やす。


1897(明治30)年

對山派本曲の形が固まる。西園流11曲を中核に、琴古流さらに九州系、奥州系の曲を加えたもの自己アレンジ曲30余曲。      外曲(三曲合奏)の演奏も名手だった。門人に津野田露月、清水静山など外曲の名手がいる。没後、明暗三十四世(後に三十五世)となる。


ひとまず以上。




對山に関しては、神田可遊著『尺八評論』6〜8号「対山派尺八の成立過程」、『虚無僧と尺八筆記』の「尺八名人・奇人伝11 樋口對山」に詳しくあります!




さて、



兼友西園、樋口對山の略歴が長くなりました。本題である對山と旧明暗寺の関係はこちらをどうぞ↓




見出し画像は、『對山譜拾遺 明暗三十七世谷北無竹集』より

参考文献
神田可遊「尺八評論」6〜8号
神田可遊「尺八通信」4号
神田可遊「虚無僧と尺八筆記」 
栗原廣太「尺八史孝」
中塚竹禅「雑音集」
高橋空山「普化宗史」
今井宏泉「素浪人 塚本竹甫」
飯塚恵理人「近代愛知県の三曲について 担い手の変化と口承から楽譜による伝承へ」


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