見出し画像

東京八王子の虚無僧寺☆光輝山澤水寺『探墓行』

見出し画像の右端に小さな石塔と一緒にポツネンとあるのが澤水寺の墓碑。案内板は何も無い。場所は八王子市大楽町の法泉寺内。

澤水寺所在地
武州八王子柳沢村

現在の地名
東京都八王子市弐分方町

本寺
括総派鈴法寺(青梅)

菩提寺
神戸山法泉寺
八王子市大楽寺84番地


江戸時代後期に纏められた地誌、『武蔵名勝図会』に、法泉寺のことが書かれている。

法泉寺
同(安楽)村内、寺地はここより西の村境にあり。寛文(1661–73)検地の頃までは庵室なりしが、その後は一ヵ寺となり、神戸山法泉寺と号し、山田広園寺末となれり。開基 関山氏(土佐と云。法号浄念禅定門。)隣村弐分方村にその子孫あり。里正りせい(庄屋・村長)なれども、村民となりてより往古の事は知れず。天文十五年(1548)起立せしと云。本尊釈迦(高野山願行上人作)

神戸ごうど
これは前に出せし大楽寺村の地先にて、村の字を神戸という、そこの法泉寺の山号を神戸山と称す。弐分方村の旧家関山氏が往古法泉寺を開基し、神戸山と名づけたり。先祖を関山土佐と号しける。これが屋敷の後山に山王社あり。関山氏が勧請せしことなれども年月不知。


本尊
普化禅師像 木造 立像 高さ六寸ばかり(一説高さ七寸位)
お厨子に納められていたという。

尊像
観音菩薩像 木造(元本尊立像)

釈迦牟尼誕生仏、鉄像 
三寸七分一体お厨子に納められていたという

本堂
木造平屋 間口三間・奥行二間三方下屋げや付き
下屋げや】とは、母屋おもやにさしかけて造った小屋根。また、その下の部分。

家屋
方形茅葺 表玄関 本堂・庫裡兼帯一棟

他にささやかな納屋・小屋兼帯(ニ〜三坪という)あり、門・竹垣根もあり、家屋はなかなか立派な建物。

表門
木造 甲州裏街道村道に面して建立。

開創
元禄年間(1688〜1703)頃。

開山
穐山きざん落葉和尚(小川春夫氏の推定)  

開基
弐分方村里正(名主)関山家(小川春夫氏の推定)

先程の『武蔵名勝図会』にも菩提寺法泉寺の開基が天文十五年(1548)関山氏となっているので、小川氏はこれを参考にしたのか。


歴代(法泉寺過去帳より)

一、澤水二世 普山寛起上座 享保五子年(1720)九月廿一日
二、通岩普撤大徳 元文三戌午年(1738)六月十六日 澤水寺秀月
三、一空普閑上座 宝暦二壬申年(1752)三月九日
四、普閑青山大徳 安永七戌年(1776)十月四日
五、江月秋山大徳 寛政元酉年(1789)七月九日 澤水寺弟子
六、来山春漸上座 寛政五丑年(1793)八月三日
七、正宗恵覚禅定門 文政六癸未年(1823)六月廿二日 澤水寺門弟

昭和55年11月14日神田可遊師調べ


法泉寺過去張 奥書

元文五庚申歳(1740)四月十七日 改書 法泉寺
 普化禅宗光輝山澤水寺住職歴代
二 世 普山寛起上座 享保五庚子年(1720)九月念一日
三 世 通岩普撤大徳 元文戌午年(1738)六月十六日 
四 世 看主秀月大徳 宝暦後年(1758-63)頃寂
五 世 一空普閑上座 宝暦二壬申年(1752)三月九日
六 世 雲谷深長上座 明和年間(1764–71)頃寂
七 世 登雲随道庵主 寛政十一己未年(1799)五月二十六日
八 世 普閑青山大徳 安永七戌年(1776)十月四日
開 山 穐山落葉和尚 宝永三乙酉年(1706)七月九日
九 世 江月秋山大徳 寛政元乙酉年(1789)七月九日 
十 世 来山春漸上座 寛政五癸丑年(1793)八月三日
十一世 石山騰雨和尚 文政元戌寅年(1818)六月現住 寂年不詳
十二世 看主臥洞大徳 文政後年(1824−29)頃寂
十三世 看主〔秀薩〕大徳 弘化年間(1844ー47)頃寂 〔〕は仮名
十四世 看主〔秀尺〕大徳 明治前年期(1868—89)頃弱 〔〕は仮名
十五世 瀧源ろうげん海我和尚 明治中期(1883―97)頃寂

小川春夫氏調査書より

十一世の石山騰雨和尚のは鈴法寺廿九世 空応騰雨くうおうとうう禅師(天保六(1835)年十月七日寂)である。


家紋
五七ノ桐。

鈴法寺の歴代住職の墓前にも五七ノ桐の紋がある。


最後の住職である瀧源ろうげん海我和尚は、鈴法寺三十三世で、神奈川県の西向寺、静海謙譲和尚と共に、維新から廃宗に至る普化宗の最終期に、一月寺系寺院の雑務処理をし行った人物。


瀧源ろうげん海我略歴

尾張藩士笹岡幸次郎の弟。旗本の出。
江戸生まれで、文久三年(1863)十月に普化禅宗総本山の鈴法寺へ入宗。当時三十才くらいか。
慶応二年(1866)正月頃、当澤水寺の看主に受職。
同年1月〜4月の間に瀧源寺看主受職。
同、来機山明暗寺(乙黒)等鈴法寺末寺兼務看主受職。
同末寺頭安楽寺兼務看主受職。
同総本山鈴法寺役僧受職。
太政官布告第558号(明治四年二十八日)で普化禅宗廃宗布告。
同年11月29日総本山鈴法寺住職代務者の役僧海我と、同一月寺住職代務者の出役謙讓で、両本山廃宗承認捺印。
同年12月31日迄総本山鈴法寺の残務整理。
明治五年(1872)正月(推定)、澤水寺・安楽寺・乙黒の明暗寺・瀧源寺等末寺兼務看主の残務整理。
その後、旧尾張藩(愛知県)の先祖代々の地に帰国か。


澤水寺残務整理

本尊普化禅師像・尊像観音菩薩像及び、尊像釈迦牟尼仏像の三体は、柳澤辻観音堂内に移転。

その他、澤水寺の書類一式と当時の什器、宝物の水晶玉(直系二寸三分)等は全て、佐々木儀三郎翁の父親に引き継いだと言う。

澤水寺住職、海我和尚より引継者は佐々木興四郎氏。

澤水寺の書類一式の中には、本則や留場証文等多数の書類もあったという。同書類一式は立正大学文学部(旧教授の立花氏)が、自宅に保存していた。

しかしながら小川春夫氏が、大学に立花氏の連絡先を問い合わせたが一切不詳だとのこと。


澤水寺住職墓地

650番4号旧山林65.35坪内5坪余…4号の一画で最南端。

墓碑が7〜9基現存したと当時菩提寺・法泉寺過去帳と同住職墓地の広さ等より推定される。

現在は宅地。


…と、ここまで詳しいことが分かっている。
ここまで分かっていながら、遺されたものは残念ながらとても少ない。


新編武蔵国風土記稿
武蔵野市立図書館所蔵

澤水寺
年貢地
小名柳澤ニアリ。普化宗。青梅村鈴法寺ノ末。今無住ニテ其サマ廃寺ノ如クナレバ。コゝモ詳ナル事ヲシラズ。

新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)とは、江戸後期に、林述斎が昌平坂学問所に地理局を置いて編纂。武蔵国 (東京都、埼玉県、神奈川県) の地誌。



さて、ここでようやく『探墓行』です。

神田可遊師とご一緒に虚無僧寺跡地へ行って参りました。


光輝山澤水寺『探墓行』!



柳澤神明神社

澤水寺はここの神宮寺であったとのこと。



天野佐一郎著『普化宗澤水寺の廃墟』(武蔵野11巻 昭和3年発行)に1928年頃、澤水寺跡地を訪れた時の情景がこう書かれている。

此処は由比牧の異名なる由井野も近く、南に丘陵を控えて、広い野原続きの廿二戸ある静かな部落である。寺址は南寄りの山根にあって、今は雑木交りの竹薮になってゐる。一段と小高い六七畝の広さに過ぎない。後ろは澤で清水が湧き、寺のあった頃は小池をなしてゐたといふから、澤水寺は其の名の境地にふさはしい名であったと思ふ。

  • 由比牧ゆいのまき】とは、東京都:八王子市由比牧 武蔵国四御牧(勅旨牧)の一。現八王子市四谷よつや町・弐分方にぶかた町一帯を由比野ゆいのと称し、そこを比定地とする説が有力。丘陵地帯の牧に適した地形を利用し、牧を営んだのであろう。「延喜式」左右馬寮にみえる貢馬は年に一〇疋。武蔵国御牧の貢馬を天皇の御前に牽進する駒牽の儀は八月二五日が定例。平凡社「日本歴史地名大系」

  • 勅旨牧 ちょくしまき】(「ちょくしぼく」とも)とは、勅旨によって設定された牧場。官牧とともに料馬を飼養し、毎年一定の数を左右馬寮に納め、また臨時の用に供し、また駅馬などに充当した。平安中期までに甲斐・武蔵・信濃・上野の四か国に置かれたが、鎌倉時代には信濃国望月牧を除いてその機能を失った。御牧(みまき)。勅旨の牧。〔三代実録‐貞観七年(865)一二月一九日〕精選版 日本国語大辞典


神明社から澤水寺跡地を見る。

寺地と前方の九畝程の畑は、寺持であったのを今は同地に近い佐々木儀三郎翁の所有になってゐる、翁に尋ねたら、多少分るだらうと行って見ると、八十近い老媼一人で「今外へ出ました」といふ。虚無僧寺の事を問へば「私等子供の頃には寺があって、立派な虚無僧が来たりしました。おて普化さまも観音堂にありませう」といふ。大いに望みをかけて、同行の木下止君と、再び山へ入って墓を探ったが、分からないから、引返して、又佐々木翁の家へ帰ると、翁も来てゐて、案内してくれたが分からない。
「どうも此辺であったが、誰か石を投げほほったか」といふだけで石塔一つ見えない。

当時は「お普化さま」といって地元の人々に親しまれていたということが分かる。

翁の言う「石」は石塔のことで、「投げほほった」は捨ててしまったというような意味なのか。

寺址の左には径があって、八王子城下横山口へ通じてゐる。翁の話に、昔は杉や樫の立木が茂ってゐて、何れも六尺以上の物で昼尚暗く、寺には門も垣根もあって、時々虚無僧の来たのを覚えてゐる。商人などは立ち入る事が出来なかったものだといふ。そこで翁を促して、部落の辻にある観音堂を開けてもらひ、中を調べたが、普化禅師の木像は見えない。

恐らくここだと思われる辻の観音堂。

お厨子に入った観音像が祀られている。



そして、天野氏はこの翁に礼を言って辞したとのこと。

この翁は齢八十。ということは江戸時代に生まれている。明治元年の頃は二十歳くらいだ。


そりゃ本物の虚無僧見てるはずだ。
いいなー。



尚、澤水寺の本則がある。

虚無僧研究会機関誌『一音成仏』16号より


『普化宗澤水寺の廃墟』にも本則の記載があり、六世の雲谷深長の名前がある。


 旧臘(去年の12月の意)浦本医学博士が、朝日紙上『學界餘談』で、「普化竹韻」と題して、普化宗に因む古典尺八が、純日本的のものであり、本曲三十六曲などは、日本人の楽才によって造り上げられたものであるが、明治四年普化宗は、無檀無祿(檀家も収入も無いこと)の故を以て、廃宗になって以来、尺八も極少数人によって、辛うじて今日まで保護されて来たが、平語の如く(平家=平家物語 滅んで行った平家の如く)滅亡せぬ前に、専門家の研究批評を待ちたいといはれている。
(中略)想ふに澤水寺は、無論鈴法寺の後に出来た寺であらうが、其の創立の年代も開基も、今のところ何等の手掛かりのないのは遺憾である。或る時は各方面の浪人達も来たであらうし、幾多の出来事も秘中の秘史として、今は知る由もないのである。


浦本医学博士とは、浦本浙潮のこと。この著者、天野佐一郎氏の心配はその後解消され、尺八研究家の神田可遊師や、小川春夫師によって、菩提寺法泉寺の過去帳から、歴代住職は調べられ、開基も分かっている。

神田師に過去帳調べの事を伺ったら、山と積まれたお寺の500年分の過去帳を1ページずつ調べたとのこと。膨大な労力の上で、このように歴代住職を公開させていただいているのです。感謝です🙏


本寺の鈴法寺との位置関係を地図で調べてみたら、本寺は澤水寺の真北に位置していて、徒歩であれば三時間で行ける位置でありました。

その道は、やはり古くからある街道、滝山街道を通っており、ますますいにしえを偲ばせます。


「いざ鎌倉!」のために整備された鎌倉古道、甲斐からの武田信玄率いる大軍を北条氏照が迎え討った歴史の舞台となった滝山街道(古甲州道)、江戸時代の八王子に宿場町としての発展をもたらした甲州道中。

八王子市公式ホームページより


こちらのサイト↓では江戸時代後期の八王子十五宿の様子がCGで描かれている。


澤水寺とは離れているが、当時の八王子の様子がとても分りやすい。
この辺りは、桑桑桑桑桑・・・だったそう。

澤水寺の近くには大沢川桑の葉通りという名の通りがある。



この澤水寺跡地には日本画家の大室白輝おおむろはくよう画伯が住んでおられた。

昭和15年頃、満州から帰国し、佐々木家のあっせんで、高橋の新家より同土地を購入し、同場所に邸宅を構えた。

当時は山腹の一軒家で、竹林に囲まれた静寂な大変良い環境の地であった。

昭和20年8月1日の夜半の空襲で焼かれたが、再興して、大室画伯が亡くなった後も小学校教員であった奥さま千代氏が住んでいたという。

日本画家、大室白輝氏の描いた『観音菩薩像』が菩提寺の法泉寺にある。

大室白輝おおむろはくようは、別名、和久洞山人わくどうさん 本名久雄。
明治38年12月31日生れ。日本画家になり、日展に川合玉堂と一緒に初入選する、
海軍に召集され、二回従軍。後杖術の末永永節先生の弟子となり、師と一緒に杖術を中国全土に広めたという。
中国北京に滞在時の恩師の遺品を秘蔵、にぎり太の堅木の棒に普化禅師の四打の偈「四方八面来施風打」が彫刻されていたという。(小川春夫氏の調査より。参考 大室千代氏談・飯田任風著『虚無僧旅日記』)


なんと神田師が訪れた時に、その杖を見たそうです。



菩提寺神戸山法泉寺へ。


神田師が以前の写真をご住職に見せて確認してもらったところ、澤水寺歴代の墓は現存しておりました。


圓寂
代々尊霊◯ 
来山春漸上座 
寛政五丑年八月三日

神田師が撮った以前の写真と比べますと、明治六年に廃寺となった無量院の墓碑群が左側にありましたが、現在は無くなっており、右側に地蔵尊が見受けられたが今は無く、もしかしたら澤水寺から運んだ六地蔵もリニューアルされてしまったのかもしれません。


ご住職いわく、

後ろの観音菩薩の台が古くなってきた為、もうすぐさらにリニューアルするとのこと。

「良かったですね、リニューアルの前に来られて」

と言われたので、

もしかして澤水寺歴代住職のお墓も無くなる可能性?


前のご住職が虚無僧寺澤水寺のお墓や六地蔵を運んでくださったわけですが、代替わりをすると、色々変わって行くのですね…。

ご近所の方や虚無僧墓マイラーの皆さんは、ぜひぜひ今のうちにお参りくださいませ🙏



さて、

『探墓行』を終えて、神田可遊師からご提供頂いた色んな資料を書きまとめてみましたが…、

天野佐一郎著『普化宗澤水寺の廃墟』に書かれた「寺址の左には径があって、八王子城下横山口へ通じてゐる。」が気になり(登山女子としては山道があるとなるとどうしても行きたくなってしまうのです)もう一度改めて虚無僧が歩いたかもしれない場所を確認したく、実は後日またこの地にやってきました。

そしてなんと、大室画伯の家の事や、昔虚無僧の墓を見たという地元の人に会ってお話を聞くことができたのです!



こちらです↓


資料提供・ご協力
神田可遊師

参考資料
神田可遊著「活惣派の虚無僧寺調査」
小川春夫著「澤水寺調査書」(手書き)
小川春夫著『虚無僧寺院(普化禅宗寺)考 資料編』  
天野佳一郎著「普化宗澤水寺の廃墟」『武蔵野』昭和三年三月号
飯田任風著『虚無僧旅日記』
値賀笋童編著『伝統古典尺八覚え書』


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