いつか見た夢「雨」

僕はただ、僕のままでいたかっただけなのに。

「うっ」
あいつの拳が腹に食い込んで、僕は思わず声を上げた。膝の力が抜けて崩れ落ちそうになるのを、両脇の二人が支えた。周りの連中は、ただニヤニヤ笑っているだけだった。
校舎の最上階。三階の真っ直ぐな廊下の突き当たり。音楽室のドアの前。それが昼休みの僕達のたまり場だった。僕はこの中学校へ転校してきたその日に、ここへ連れて来られた。あいつは「今日からお前は俺たちの仲間だ」と言った。
しばらくは、新しくできたその仲間たちと楽しく過ごした。が、すぐにこの仲間関係は対等ではないことに気がついた。最上位にはあいつがいて、最下位には僕がいた。そのことに気がついたときには、すでに僕はここから逃げられなくなっていた。あいつの敵になるより、仲間のまま従う方がマシだったからだ。恐らく、毎日ここへ集まる十人ほどの生徒はみんな、僕と同じ事を考えているのだろう。
  バシッ。
今度は僕の太ももに、あいつの投げたサッカーボールがぶつかった。僕の顔が歪む。
「ごめん、痛かった?」
あいつはそう言うとゲラゲラと笑い、こう続けた。「止めて欲しかったらさ、猿の真似しろよ」
僕は。
僕はいつだってあいつの言いなりだ。とっくに考えることを止めたんだ。慣れてしまえば、どうってことはない。僕は言われたとおりに猿の真似をした。みんなが笑う。笑って、なにもかも冗談にしてしまう。そうやって、体の痛みも胸の痛みも感じないフリをする。
何も考えるな。
頭を空にしろ。
そして、ただただ笑え。
誰かが僕の足を蹴った。僕はよろけてそのまま後ろに倒れた。間抜けな猿だと言ってあいつがまた笑う。僕はゼンマイが切れ掛かったブリキのオモチャのように、ゆっくり起き上がって再び猿の真似をした。
明日は違う誰かが、明後日は、また僕かもしれない。あいつの機嫌の良い時には何も起こらない。あいつの機嫌が悪い時には誰かが犠牲になる。誰かが犠牲になっている間は、他の誰かが犠牲にならなくて済む。僕らは社会の本質を学校の廊下の隅で学ぶんだ。

7月になった。僕が転校してきてからもうすぐ三ヶ月になろうとしていた。仲間内での関係が微妙に変化してきて、僕は前のように痛い思いをすることはほとんど無くなった。その代わり、あいつは教室の中でも僕にモノマネをしろと言うようになった。僕は言われたとおりにした。蛙になれと言われればピョンピョン跳ねてみせたし、担任の遠藤になれと言われれば、猫背になって片足を引き摺りながら歩いてみせた。面白いようにあいつの言いなりになる僕を見て、クラスの皆が笑った。
僕は。
僕は笑えなかった。それでも、一人になるよりマシだった。今まで、どの学校でも僕は友だちが出来ずにいつも一人だった。それならそれで、ほっておいてくれればいいものを、女の子の様に華奢で真っ白な肌を皆がからかった。感情を押さえ込んで耐えようとするけれど、最後には自分でもどうすることも出来なくなって、結局、転校することになった。
ここへ来て仲間が出来たことを母親はひどく喜んだ。そう、これで良いんだと僕も思った。
ところが、夏休みの間際になって妙な遊びが始った。
廊下を歩いている時、理科室で実験をしている時、美術室で絵を描いている時、身近に水がある時に僕は仲間から突然水を顔に掛けられるようになった。そして、あいつらはこう言った。
「おい、見てろ。こいつ濡れると変身するんだぜ」
その言葉に反応できずに僕が呆然としていると、近くにいる誰かが適当に声を掛けた。
「じゃあ、数学の宮野の真似して。宮野」
「真似じゃなくて変身だろ。ね、国語の佐々木に変身しろよ」
「それより猫に変身してよ。で、すっごく可愛い仕草してみてよ」
大抵はクラスの女子が面白がって、アレになれコレになれと言った。でも、僕の耳にその声は届かなかった。頭の芯が熱を帯び目の奥に鈍痛が走って、やがて指先が痺れてきた。僕はその痺れを何とか抑えようとして意識を指先に集中させた。そうしている内に教師が皆を注意して騒ぎは収まった。僕は黙って顔や服に掛かった水をハンカチで拭った。
毎日ひたすら、早く夏休みになってくれと祈った。もうこれ以上、妙な遊びが広まらないうちに。

夏休みに入ってから、僕は仲間とほとんど連絡を取らなかった。あいつからも電話は一度もかかって来なかった。考えてみれば半年後には高校受験が待っている。夏休みに遊んでいられる奴はいない。
このまま、何もかもが終わってくれることを願った。新学期が始まる頃には、あの変身ごっこの事だって皆に忘れられてるだろう。
案の定、夏休みが明けると一気に受験ムードが強まった。あいつも鳴りを潜め、たまり場にたむろすることも無くなった。授業中もおとなしくなり、僕にちょっかいを出さなくなった。
これで、何もかも終わったんだ。
そう僕は思った。

何事もないまま数週間が過ぎ、林間学校の日がやってきた。
遥か遥か遠くの方で雷が鳴っている。実際に雷鳴が聞こえる訳じゃない。大気の震えが微かにそれを伝えているだけだ。頭上には屈託のない青空が広がっていた。
炊事場では生徒たちがいくつかの班に分かれてカレーを作っていた。楽しんでいる生徒は一人もいない。自ずと作業は緩慢になった。僕は飯盒でご飯を炊く係だった。一緒に組んだ男子生徒がキャンプ好きで、作業は順調に進んだ。
ご飯が炊き上がり、方々でカレーの匂いがしはじめた頃、端からカレー作りに参加する気がなくて、別の場所でふざけあっていた連中が突然僕の班に姿を現した。
──終わってなかったのか。
僕はぼんやりとそう思っただけだった。
「新しい遊びを思い付いたんだけど」
遠くの方であいつの声が聞こえた。
「そう」
もっと遠くの方から僕の声が聞こえた。
「じゃ、早速はじめようぜ」
次の瞬間、僕は頭からずぶ濡れになった。消火用に釜の横に準備されていたバケツの水を、背後から誰かが掛けたんだ。不思議と体は何も感じなかった。ただ、頭の芯が熱を帯びて、脳の血管が脈打つのが分かった。頭の中から鼓動が聞こえて、まるで自分が巨大な頭だけの生物になったような気がした。
「おい、みんな見てみろよ。こいつは濡れると変身するんだぜ」 あいつの陽気な声が聞こえる。相変わらず遠い。
「それじゃあ、今までと同じだろ」
「だからさ、今度はこいつからは想像もできないような、何か強いものに変身させるんだよ。虎とかさ、熊とかさ」
「こんな細くて真っ白い熊なんかいるかよ」
「だからやらせるんだろ」
ほとんど独り言に近かったような気がする。僕は不意に「嫌だ」と呟いた。その言葉を聞いたあいつは途端に笑うのを止めた。
「なんだよ、珍しく抵抗するのかよ。頭から水ぶっ掛けられて、さすがに頭に来たのかよ。なら、鬼に変身してみろよ。ほら、たっぷり水かけてやるから、真っ赤に怒り狂って鬼になってみせろよ」
あいつはそう言うと、足元にあったバケツの中の水を僕に浴びせ掛けた。続けて他の連中が近くに置いてある水を次々に僕に向かってぶちまけた。
「僕は鬼じゃない」
「あ?なにお前、まだ抵抗する気?」
いつもなら黙ってあいつの言いなりになっている僕が、珍しく抵抗している様に他の生徒達も興味を抱いて、退屈な作業を中断して僕達を取り囲み始めた。
「僕は鬼じゃない」
「はいはい、いいからガオーとか言ってみろよ。笑ってやるからさ」
そんなやり取りにクスクスと笑い声が上がった。

どうして?
どうしてみんな僕の邪魔をするの。
僕はただ、僕のままでいたかっただけなのに。

その時、突然激しい雨が振りだした。
雨粒が勢いよく僕の体にぶつかって、白くて薄い皮膚が弾けた。そして、裂けた皮膚の下からどす黒い本当の僕の皮膚が現れた。
「な、なんだよそれ」
「なにが?別になにもおかしくなんてないだろ」
「いや、だってその肌お前」
雨は益々ひどくなっていった。僕の皮膚は次々に弾け、筋肉が隆起し血管が浮き上がり全身の骨がボキボキと音を立てた。誰一人声を上げることも、指一本動かすこともできないまま、僕の華奢な体がどんどん肥大して醜く変形していく様を見ていた。
「いやあ」
僕の一番近くにいた女子生徒が、恐怖に堪えきれずに悲鳴をあげた。僕が後退りする彼女の腕を掴もうと手を伸ばすと、鷲の様に鋭く長い爪が彼女の柔らかい肌を引き裂いた。傷口から噴き出した血が降りしきる雨と混ざって地面に飛び散った。
一斉に女子生徒達が悲鳴を上げた。
それをスタートの合図にでもするかのようにして生徒達が四方へ散った。僕は誰でもいいからとにかく捕まえようと闇雲に腕を振り回した。ただ僕は話を聞いて欲しいだけなのに、空をかくたび鋭い爪があらゆる物を引き裂いた。
誰かの指が千切れて飛んだ。
誰かの耳が。
誰かの腕が。
あたり一面に悲鳴が轟く。
誰の物かも分からない体の上を踏みつけながら生徒達が逃げ惑う。
それを僕が追いかける。
「僕は鬼じゃない」
もうすぐ僕は何も分からなくなるだろう。
「僕は鬼じゃない」
目が見えなくなって、何も聞こえなくなって。
「僕は鬼じゃない」
何もかもが遠くのどこかで起きてる出来事のように思えて。
僕は。
やがて何も感じなくなった。次々に動くもの全てに襲い掛かった。何故追いかけていたのかも、何故彼らが死ななければならないのかも、何故こんなことになってしまったのかも、何も考えずにただひたすら腕を振り回し続けた。悲鳴を上げる者が一人減り、二人減り、雨音以外、何も聞こえなくなるまで。

気がついた時には、僕の体は元通りになっていた。
雨はまだ降り続けていた。
その雨音が、まるでカーテンコールを待ちわびる観客たちの拍手のように鳴り響いて。
累々と積まれた死体の真ん中で一人、僕は、ただただ泣いた。

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